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いまやハロウィンは愉しい秋の娯楽イベント [文化・歴史・芸術]

10月に入ると、街の店舗ではオレンジ色の飾り付けがあちこち目に付く。
ハロウィンはひと昔前、日本ではあまりメジャーでなかったと記憶するが、最近は秋定番のイベントになっている。でも、果たしてどれだけの人がハロウィンのことを知っているだろうか。実は私もあまりよく知らない。
なので、こういう時はスマホで検索。すると大体のことがわかり便利だ。
   
ハロウィン.jpg
  
ハロウィンのカボチャお化けのキャラクター商品
 
さて、そのハロウィン、古くは紀元前までさかのぼり、ケルト民族の時代から始まる。この古代ケルトでは11月1日が新年で、前夜の10月31日から秋の収穫を集めた盛大な祭りが開かれたそうで、この日には、死後の世界との扉が開き、先祖の霊が戻ってくると信じられていたという。
 
また、なぜハロウィンの時におどろおどろしい変な仮装をするのかと言えば、この時に先祖の霊だけでなく、悪魔や魔女、さまよえる魂なども死後の世界からやってくるので、人々はそれと同じ格好をして仲間だと思わせ、身をまもっていたそうだ。これが19世紀になると移民とともにアメリカにわたり、次第に宗教的な要素が薄れて、娯楽イベントとして変わっていき、人々を愉しませるものになったようである。
 
ハロウィンのシンボルといえば「かぼちゃのお化け」のランタン。いわゆるカボチャ顔の提灯だ。もともとは大きなカブで作られていたが、アメリカに伝わってからカボチャになったらしい。ガイコツ顔でちょっと怖いのが特徴だ。
 
日本でもこの時期、カボチャのお化けのキャラクターがそこらじゅうにあふれる。本当は怖いお化けのはずだが、どうも怖さを感じものが多い。おそらく、日本の特技「カワイイ」で、お化けもアニメ的で愛らしくなっているような気がする。それが子供たちや若者にウケているのではないか。
 
このハロウィンが終わると、街はすぐにクリスマスモードに移り変わり、それが過ぎれば正月の門松が飾られる。この秋から冬にかけて街は忙しい。
 
また、これらの行事は宗教的要素が強いはずだが、お構いなしだ。
無宗教、多神教ともいわれるいまの日本、いやすべてが商業ベースで動いているのか。何も考えず愉しいことならばなんでも参加するのか、あるいはどんな宗教にも感謝の意を感じながらその行事をいそしむのか、たぶんすべて該当するのがこの国の人たちと考える。
 
節操なく観えるが、良く解釈すれば思考面、精神面で多様化が最も進んでいる民族かもしれない。おそらく、前のブログで書いた折口信夫の研究による「まれびと」に通じる精神、よろずの神を受け入れる準備のようなものが日本人には潜在的に備わっており、キリスト教や仏教、神教、そしてケルトの民族宗教など、あらゆる宗教を抵抗なく受け入れられるのではなかろうか。
 
まあ、ウンチクはさておき、難しいことを考えず、このハロウィンを愉しむのも悪くない。菓子売り場にあった、かわいいカボチャお化けのキャラクター商品(写真)を見つけた。その他にも、いろいろハロウィンにちなんだグッズやアイデア商品が溢れており眺めているだけでも面白い。
 
秋はちょっ寂しげな季節になりがちであるが、ハロウィンを愉しく気軽に味わうのもいい。

タグ:ハロウィン
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芸術の秋、東京芸術大学美術館で皇室の至宝の数々が展示。 [文化・歴史・芸術]

秋が近づくと、不思議に芸術が気になってくる。
いま伊藤若冲の代表作「動植綵絵(国宝)」をはじめ、宮内庁所蔵の皇室の至宝が、東京芸術大学大学美術館で展示されている。といっても、気が付けば開催期間のギリギリ。これを逃すと後悔すると思い、昨日、思い切り観に行った。
 
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題目は「日本美術をひも解く」、奈良時代から昭和にかけて、書や和歌、人物、物語、花鳥、動物、風景などをテーマ別に、芸大らしく日本美術の変遷をわかりやすく紹介した展覧会である。
 
上野には、国立美術館や平成館、東京都美術館など、何度も訪れているが、東京芸術大学美術館は初めて。それも興味津々、愉しみでもあった。芸大の門を入るとすぐわきにその建物がある。周囲の古いレンガ造りの大学校舎と対照的に、キューブ状のコンクリートとガラスのモダンなつくりで最近の建物だ。展示スペースも鑑賞しやすくコンパクトにまとまっている。私のようなシニアには大きな美術館よりも、このサイズがちょうどいい。
 
出品物には国宝やその水準(絶品級)のものが展示されており、一品一品じっくり観ていても飽きが来ない。とにかく、どれをとってもすばらしいものばかり。
また、歴史の教科書に必ず出てくる「蒙古襲来絵詞(国宝)」や美術の教科書に載っている「鮭(高橋由一:明治10年)」など、実物をまじかにすると、「ああ、これがあの時の・・・!」と学生時代の懐かしい記憶が甦り、ひときわ感動が込み上げてくる。こういう作品との出会いも美術館の愉しみのひとつだ。
 
今回の展示を振り返ると約千年の月日の流れの中、日本の美には一貫した精神のようなものが流れているような気がする。奈良時代の絵巻と江戸時代の花鳥から、近代の芸大出身の作家の作品など、やはりどこか深いところで共通している。それはなんであろか。西洋ではキリスト教をはじめとする宗教的な色合いが強いが、日本ではおそらく自然(四季、植物、動物、それらを包み込む風景)への畏敬と崇敬の念が根底にあるように思える。
 
若冲の絵の中には、植物が朽ちているところも忠実に、またきれいなものばかりでなく、毛虫や蛾など人が嫌うような虫も、その自然の中で重要な一員として描かれ、それが決して気色が悪い絵にはなっていない。むしろ、これが本当の自然だと諭すように描いている。また、それを美しい絵に仕立てているところが若冲の凄さであろう。
 
美術鑑賞は、観方によって面白さが倍増する。芸大とあって、美術史や技巧などに焦点を当てられていた感じがするが、もう一歩、踏み込んでほしいこともあった。
例えば、絵巻物など、歴史的な記述や美術的な解説はされていたが、その絵巻物のドラマ性がいまひとつ伝わってこない。国宝「春日権現記絵」では、館(やかた)の前には牛車が止まっており、幾人もの人が何やら話をしている。さらに館の中にも身分の高い公家人や使用人らしき人も大勢描かれており、それぞれが表情豊かに何かを話している。歴史的な価値を感じながら人物描画を観るのも愉しいが、そこに描かれている人々が何をしているのか、その時代に生きる彼らの生活や生き様の一端でも覗えれば、この蒔絵の魅力はグッと違ってくる。そんな解説がほしかった。
 
また書の三蹟である小野道風の「屏風土台」があったが、これも字ずらが素晴らしいのだろうが、どんな文章がかかれているのか、翻訳的な説明があったら、東風の人物像がよりはっきり見えてくる。
 
ただ、そんな細かく解説したら、観る人が動かなくなり、鑑賞に支障をきたすから、そこまでしていないのかもしれない。まあ、細かいことは家に帰って調べてみよう。
 
しかしながら、久々に芸術に浸り、充実した一日を堪能することができた。

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イサムノグチの彫刻にビビッと。 [文化・歴史・芸術]

NHKの美術番組で、いま東京都美術館で特設展示している彫刻家イサムノグチの作品が紹介された。イサムノグチといえば20世紀を代表する彫刻家で、日本人の父親とアメリカ人の母親の間に生まれ、東西のアイデンティテーに葛藤しながらも、独自の彫刻哲学を築き上げた偉大なアーティストだ。
 
彼の作品は日本でも札幌の大通り公園をはじめ、都心の商業施設など、数多くの公共の場所に設置されており、そんな偉大な芸術家の作品とは知らず、身近なところで親しんでいる。 
 
イサムノグチの作品は主に抽象的な石の彫刻で、一言でいえばシンプル、どことなく禅の世界を彷彿させるものが多い。彼は、石の声を聴きながら、ちょっと手を加えるだけというが、その彫刻の存在力、生命力は際立っており、そこから溢れるパワーと精神性は周囲の空間全体に程良い影響を及ぼし、魅力あるイサムワールドを創りあげている。
 
それとは対照的に、時折、ポツンと彫刻を見かけることがあり、何故こんなものがここにあるのかと不思議に思うことがある。たいていの場合、周囲の環境を意識することよりも、その作品のテーマ性を主張しすぎる作品が目に付く。例えば、湘南海岸江ノ島の弁天橋にある裸婦のような抽象彫刻もいつも違和感を感じる。作者には悪いがなかなか馴染めない。私だけかもしれないが・・・。
 
イサムノグチのすごさは普通の世界に調和しながら、新たな主張、新しい世界を見出している。不思議な感動はそこにあるように思う。簡素なデザインであるが奥深く、観る者を惹きつける。
 
ブログで、芸術について取り上げるのは、とても難しいが自分なりに感じたことを書いてみた。本当はアートの世界はよくわからない。でもイサムノグチの作品はビビッときたので、自分なりの解釈をしたまでである。ちょっと無理があったかもしれない。

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ジャニー喜多川さんの人間力が凄い。 [文化・歴史・芸術]

 ジャニー喜多川さんが逝去され、テレビなどで故人を偲ぶ番組が数多く放映されている。正直なところ、これまでジャニーさんという人物をあまり知らなかったが、実はとても凄い人であることを改めて知った。この凄さとは単にショービジネスの世界で成功した手腕でなく、むしろ多くの若者を育てた人間力にある。その人間力こそが、いまの日本の若者文化をけん引していると言っていい。彼はこの派手な世界と対照的に極めて謙虚で地味な人であったらしい。偉ぶることもなく誰にでも公平に接していたという。業界のトップにある人間がなかなかできることではない。
 これまでジャニーズについては偏見があった。年をとった私のような年配者からすれば、ジャニーズ事務所所属のタレントはチャラチャラした感じの半分子供のように観える。こんな子供を使って商売してもいいのかと批判的に考えてもいたが、長年観ていると意外にも彼らは立派に成長している。

SMAPTOKIOV6嵐などグループぐらいしか知らないが、それぞれ個人でも俳優や司会など本業かと思えるほど的確にこなしている。彼らを見ていると超売れっ子になっても決して驕ることも、またチャラチャラすることなく、真面目にしっかり生きている。その姿勢こそがジャニー喜多川のスピリットなのだろう。
 今回、ジャニーさんを偲んで様々なエピソードを聞いたが、共通しているのが、ひとり一人に対する思いやりと深い愛情である。タッキーこと滝沢秀明さんが思い出を語った時に、「これが本当の父親の愛情か」と感じたそうである。彼自身の不遇な生い立ちもあろうが、本当に良き人に出会えたことへの感謝が滲み出ている。

もうひとつ凄いと思うことは、彼らにチャレンジ精神を植え付ける才能である。彼らの性格や特技を見抜き、それをうまく育て一流に育てていく。そこで大事なことはチャレンジ精神で、どちらかといえば厳しさよりも褒め方で才能を伸ばしていったようだ。だから、ジャニーズのタレントは共通して個性的で伸び伸びしている。いまの学校教育の中にその精神を取り入れてもらいたいものだ。
 これからジャニーさん亡き事務所になるが、その精神は一人一人に受け継がれており、これからの日本の芸能界、いや日本文化にも大きく影響を与えていき、さらにはアジアや世界にも幅広く発信されていくように思える。ジャニー喜多川さん、極めて文化に大きく貢献した人といえるだろう。


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村上春樹インタビュー集を読んで [文化・歴史・芸術]

 こんなタイトルでブログを書いているけど、実はまだ村上春樹の小説を一度も読んだことはない。ただ、ノルウェーの森のころから出版されるたびに世間が大騒ぎになるので、ずっと気になっていた。私自身、本を読むのは好きな方だが、小説よりもビジネス書や歴史などの実体験や史実を好む傾向があり、どちらかというとノンフィクションは苦手であった。今回、たまたま入った本屋に、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです:村上春樹インタビュー集1997~2009」が山積みにされていたので、手に取ってパラパラめくり、斜め読みをしてみた。すると結構、心に響く言葉や文面など、思った以上に惹きつけられ、まずは村上春樹の入門編ということで、この1冊を買ってみることにした。

 さて、この本は12年間の国内外からのいろいろなインタビューのやりとりが村上春樹流にまとめられているもので、彼の小説を知るうえでも非常に参考になる。そこには読者や批評家の一方的な視点と違い、作家からの思いや作法のテクニック、あるいは本音の一部など記載されており、小説に対する私の偏見も少し一変させられた。

 まず面白いと思ったのは、物語の展開が自分でどうなるかわからない。楽しみながら書いているということだ。逆に書き上げた後の作業が大変で、何度も読み返し、納得のいくまで修正を繰り返し、文章の完成度を上げているという。また、短編小説などは最初にキーワードから、イメージを膨らませ物語にしていくらしい。彼独特と言われる作風はこうして生まれるようだ。

 しかしなぜ、村上春樹がそんなに売れているのか。しかも全世界から注目されている。
ひとつは現代社会の価値観、特に若い層の人たちが求めているものと、彼が描く世界に、ある種の共感するテーマがあるのだろう。彼の小説を読んでいる訳でもないので、知った被ったことは言えないが、たぶん、読んでいて感じる心地よさ、また次にどんな話があるのかとグイグイ引っ張られる感触、それに引き込まれていくものと思う。つまり、作者と読者の周波数がフィットし、小説の中で一緒に楽しんでいるのではないかと想像する。 
 また、このインタビュー集でも感じるが、文章、言葉がわかりやすく、丁寧だ。しかしながら、読んでいるうちに奥深さが残る。ここは文章的なテクニックを駆使しているらしい。作者の一方的な思いで読者を誘導せず、自由に考えを尊重させる。そんな作風も功を奏しているのではないか。まあ、難しいことはわからないが、1冊読むと次も読みたくなるというのだから得るものがあるのだろう。
 

 そのほか彼の日常であるが、規則正しい毎日の生活も意外であった。一般的な作家のイメージといえば、不規則で、一日中机に向かい運動不足、タバコをスパスパで、非常に不健康な生活、こんな生活スタイルを想像する。しかし、これの真逆で、毎日4時起床、8時30分睡眠。そして約10kmのジョキングないし1500mの水泳を欠かさず続けているという。本人は小説を書くにはものすごいエネルギーが必要で、体力がなければできる仕事ではないと語っている。こうした精神的な健康さが、作品にも良い影響をもたらしているのだろう。

 それから、彼自身、インタビューは好きでなく、テレビやラジオなどのメディア出演はないと言っている。確かに本人の話している姿は観たことがない。 偉ぶるところもなく、謙虚でまじめな感じが漂う、そんなインタビュー集であった。まず、代表作ノルウェーの森を読んでみよう。


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日本の伝統工芸品、もっと世界に発信を。 [文化・歴史・芸術]

 日本伝統工芸展が日本橋三越本店で開催されている。
 
 工芸品は観賞を目的とした美術品と異なり、私たちが日常使用するものである。とは言え、展示された一品一品の繊細な美しさや精巧なつくりは、実用品をはるかに超えた芸術品の域に達している。

 展示されているものは、陶磁器や漆器、金細工や竹細工、織物や人形など多岐にわたり、多くの人たちの目を楽しませてくれている。日本の伝統技術は、長い年月を人から人へとただ伝承されているだけでなく、それを受け継いだ職人の工夫やこだわり、思いなどが積み込まれ、決して風化することなく新しい息吹さえ感じさせる力がある。いにしえの香りを感じさせつつも現代的な斬新さが放たれている、それがいまの伝統工芸品だ。
 
 この展示品で共通しているのが、やはり和の形、和の色彩である。基本的に素材で決まってしまうと言えばそうだが、もうひとつ「和」へのこだわりが見えてくる。
それは茶の湯や華道などの精神に通ずるが、素朴さやわびなどに美を見出しているところ、西洋的な豪華さや明確な幾何学性などの人工的な美とは異なり、自然を大切にする心が伝わってくる。こうした日本的な美を外国人が理解できるかわからないが、おそらく不思議な力に惹きつけられるのではないか。 
 
 日本橋三越とあって年配の方が多く、あまり若い人たちの鑑賞者は見られなかったが、こうした伝統工芸にもっと関心をもってもらいたいものだ。日本が世界に誇れる素晴らしい財産と言っていい。若者はもっと自慢すべきである。
 
 これらの伝統工芸品はすべて手づくりで出来ている。その価格は相当なものと推測するが、製作にかかった時間、人件費を考えれば当然と言える。ただ、器ひとつに数十万のお金を出すことは一般人にはできない。庶民にお宝の価格だ。ただ、この伝統工芸を絶やさないためにも、この素晴らしい工芸品が高い価格で売れなければならない。そこが伝統工芸の大きな課題であろう。

 最近、日本の文化が世界で見直されてきつつあるが、観光地や食べ物だけでなく、こうした和の文化、財産を世界にもっともっとアピールし、より広げていくことが重要だ。
美の価値は、シャネルやクリスチャンディールのような金銀、プラチナの装飾品に決して劣ることはない。むしろ素材が木や竹、土などのありふれた自然素材を最高の技術と手間暇で作り上げた、最も贅沢品ともいえる。
 
 今回、高松宮賞はカイワレ大根を題材にした陶芸の鉢である。鉢の中にさりげなく描かれたカイワレの芽やその茎のラインを意識した形状は身近な感覚とユーモラスさ、そして伝統工芸品としての美的品格を備え、優れた作品が多く並ぶ中でも、「なるほど」と言える秀逸な作品であった。とにかく久々に感動と五感を感じる美に出会えたひと時を過ごした一日であった。
 

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ドラマ「小林一三」、よい刺激をもらった。 [文化・歴史・芸術]

 NHK放送90年ドラマ、阿部サダヲ演じる小林一三、実に面白かった。

小林一三は戦前から戦後にかけて、阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝など数多くの事業を成功させた大実業家である。前編は落ちこぼれの銀行員、チャンスを生かしつつも借金に追われ、ついていない人生。後半からは人生の転機、恐慌で株式の半分も引き受け手がない小さな鉄道会社(箕面有馬電気鉄道)を引き受けることで、さらに苦境に陥るが同時に少しづつ運も手にしていった。ただし、その運は小林一三の事業に対する才覚と努力、執念で勝ち得たものだ。常に人のために行動し、そして国を良くしていこうという信念で事業を推進。やがて、阪急グループという一大コンツェルン創設につながっていく。

 最近、これとは対照的に、東芝の不正会計処理問題など、企業のあり方が問われる事件がクローズアップしている。そこには目先の利益優先に走り、社会への貢献や働く人たちの喜び、やりがいなどひとかけらもない企業の実像が映し出されていた。日本を代表する大企業として実に悲しい実態だ。

 そもそも、会社(企業)は世の中のために事を成し、そして報酬を得るという公的な目的がある。しかし、今日では仕事を得たら何パーセントの利益を出すか、そればかりに執着し、 公的な報酬概念はない。 確かに会社は収入、支出という流れの中、利益というものを得なければ生きていかれない。だが、その会社が世の中に必要とされるかは別だ。つまり、社会にとってどれだけ役に立つか、それがない会社は必要とされない。世の中に役に立ち、そして人が喜ぶこと、人の夢を実現させてやろうという気概、それが小林一三の凄いところである。

 こうしてみると現在、元気のある会社の経営者はそうした思いや信念があり、結果として世間から受け入れられ、高い報酬を得ているところが多いような気がする。夢や希望だけでは、食っていかれないと言われるが、それなしでやがてはじり貧になる。たとえ苦しくても 工夫に工夫を重ね、努力と執念で頑張り、社会、人々から受け入れられること、その大切さをこのドラマから収穫することができたように思える。


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スローフード文化の時代 [文化・歴史・芸術]

 スローフード。その土地の伝統的な食文化、食材を見直す運動で、1986年イタリアのカルロ・ペトリーニさんによって提唱されたという。

いま日本はまさにスローフードブーム。和食や地酒、地元の特産品を活かした郷土料理、B級グルメ などなど。日本の食文化、食材のレパートリーは世界に類を見ない豊富さであろう。また、伝統的なものばかりでない。新しい発想のものも次々あらわれる。日本人のお家芸である和洋折衷。世界中からいろいろなものを取り寄せ、アレンジし、自分たちの好みにあったものに仕上げる才能は古来から健在である。

 そうした文化が、いま外国人に注目され、日本への観光人気につながっている。

 これまで当たり前と思っていた日本文化、特に食文化はおそらくダントツ世界ナンバーワンではなかろうか。経済は中国に抜かれ世界第3位、さらに数年後にはインドにも抜かれると予想されているが、この食文化は、質と深さの面で100年かけても覆されることはないだろう。

 日本の食文化は人々の食に対する思いだけで築き上げられたものではない。四季折々の気候、周囲は海に囲まれ豊富な魚介類や山間部から湧き出る良質な水、農作物が育つ土地など、世界中でも稀にみる自然環境に恵まれたからこそ、おいしい食材を得ることができたのだ。その幸のおかげといっても良い。

 しかし、20世紀以降、日本のそうした豊かな自然も経済効率から徐々に破壊されつつあり、かつてほどの恩恵も危うくなりつつある。

 スローフードは、食文化を中心に、環境を見直す良いきっかけである。やはり、食卓が文化の中心にあり、人が集い、街や産業が栄えていく構図が、もっとも居心地のよい社会である。ギスギスしたストレス社会とはちがった生活が見えてきそうだ。スローフード文化こそ、いま日本が最も目指す道に思える。 


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新国立競技場、SANAA案浮上に期待。 [文化・歴史・芸術]

安倍首相の新国立競技場白紙撤回は英断だ。

予算もさることながら、あのデザインが本当に良かったのか。流線型で未来から来た巨大宇宙船のようなイメージは非常に素人受けしそうであり、このインパクトのある建築がオリンピック招致にプラスになったことは間違いない。

でも、このデザインを観て多くの感性ある日本人はどう思っただろうか。ハッキリ言って「好きになれない。日本的ではない。」という意見が多かったのではないだろうか。

このド派手なアイデアを出したのは英国在住のイラン人女性建築家で、これまでも斬新すぎて実現しない建築も多々あるといういう。今回のような予算の大超過、事業中断は初めてではないようだ。

あの巨大な建物も上空から観ればデザインの凄さは伝わるが、人の目線で見た場合どうだろう。あまりの巨大さでただの土木構造物を観ている感じになるのでは。また平和な国、日本を象徴するには威圧感が余りに強すぎる。

今回、国際コンペという透明性、公正性のあるシステムで選ばれた案というが、やはりその時の選定委員たちの基準に「オリンピック招致に絶対勝てるような迫力あるシンボリックな建築」という意識が大きく影響していただろうし、共通認識だったように思える。

ある建築雑誌にコンペで応募された競技場案がズラリ記載されていたが、やはりザハ・ハディッドさんの建築は圧倒的パワフルで、ここで勝ち抜いたのは理解できる。コンペの選定委員長が安藤忠雄さんでなくても、彼女の作品を推す声は多かっただろう。基本的には予算内で建築できることを前提に応募されたアイデアコンペである。今回の問題はデザインと予算、つまり事業性に対するチェックシステムが曖昧であったことだ。ある意味、良い学習ができたこと、また引き返しができたことは今後の良い教訓になろう。

さて、今回のコンペの中には迫力以外の面で、いくつかの秀作がある。特に日本の建築事務所SANAA:妹島和代+西澤立衛の建築は素晴らしい。ザハさんのゴッツイ流線形とは全く別物で綺麗な流線で柔らかくデザインしている。SANAAの建築はシンプルでとにかく美しい。できればこの建築を新競技場として実現することを期待したい。

この建築も実際試算をすれば恐らく予算オーバーする可能性は高い。しかし、設計事務所、ゼネコンも自分たちの儲けよりも、日本のメンツにかけてもひと肌脱いでもらいたい。これはもはや国家の威信をかけた大プロジェクトである。歴史的に残る名建築を、国民の納得のいく形で、またオール日本総力を挙げて進めてもらいたい。


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きゃりーぱみゅぱみゅと草間彌生、新旧2人のわくわくワールド [文化・歴史・芸術]

 「きゃりーぱみゅぱみゅ」 

 名前を上手く言えない。果たしてこれが名前なのか。きゃりーが苗字でぱみゅぱみゅが名前?オジサンには理解不能である。また、彼女の歌も異次元空間での流行歌に聞こえ、他の歌と一緒にはできない。ファッションもアニメの中から飛び出てきたような不思議な色彩に包まれ、これまでと全く違う異色の女の子だ。

 ただ、このハチャメチャに観える彼女、いや彼女が醸し出す全体のカタチや雰囲気に、どうも惹かれる。これは単に女の子のかわいいファッションだけではない。その奥に何か洗練された美学、アートのようなものを感じる。

 彼女とは全く別世界の人であるが、一人の女性を思い浮かべる。彼女の名は草間彌生、知る人は知る84才の気鋭の前衛芸術家だ。カラフルな水玉模様の衣装に真っ赤なかつらを被り、文様のようなギザギザや水玉図形で生き物のような奇妙な絵を描きだす。だが、これらの作品は全世界の有名美術館で個展を開くほどの人気で、いまでは世界を代表する現代アーティストと言われる。彼女も自分自身のキャラクターを作品の中に一体化させ、草間ワールドという芸術ジャンルを創っている。 

 きゃりーと一緒にしてはいけないと思うが、どこか共通するところもある。草間彌生の「幻覚」、きゃりーの「カワイイ」、それぞれ追い求める対象は異なるが、芸術としての表現手段と強烈なインパクトは非常に似た面がある。 最近、草間の一見気色悪そうな作品?を「カワイイ」と言う声もあるそうだ。確かに彼女の作品の中には女性が好むピンクや水色などのパステル調の色彩が多用されているせいか、どことなく愛らしさを感じさせられる。

 いま、キャリーぱみゅぱみゅも世界中で注目を集めているそうだが、日本のカワイイ文化、芸術のシンボルになっていくのではないか。きゃりーと草間彌生、新旧2人の女性、世界を驚かせるわくわくアーティストとして、これからも大いなる活躍を期待したい。


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「風立ちぬ」 巨匠宮崎駿監督に拍手! [文化・歴史・芸術]

  「風立ちぬ」、すぐに思い浮かぶのは80年代に流行った松田聖子の歌。

  宮崎駿監督の新作アニメ「風立ちぬ」で聞こえてくるテーマソングはさらに10年以上遡った荒井由美(松任谷由美)のひこうき雲。中高年以上の人にはちょっと懐かしく、いまの若者には不思議な新鮮さを感じることだろう。

  今回の映画は不思議な生き物たちが出てくる、これまでのジブリの独特な世界と異なり、堀越二郎という実在の飛行機好きの青年の生涯を堀辰雄の小説「風立ちぬ」を重ね合わせて描かれた物語である。大正から昭和の暗く重苦しい時代を戦闘機好きで、戦争嫌いな宮崎監督ならではの視点でリアルでファンタジーに美しい画面で仕上げている。絵そのものは芸術作品と言っていい。

  最近のアニメ製作はコンピュータグラフィック中心であり、映像表現は数倍可能性が広がったかもしれない。しかし、その計算尽くめで、無機質な画像はどうも違和感を感じる。あのディズニーでさえもデジタル映画製作に傾いており、昔の「白雪姫」や「ピノキオ」のような芸術性はあまりない。新しい技術やチャレンジを否定するわけではないが、何か大事なものを失っているような気がしてならない。多分、人の手のぬくもりかもしれない。

  宮崎映画にはアニメの職人集団がつくる繊細な高精度な技量がいっぱい詰まっている。その絵から彼らのプライドや尊厳が伝わってくる。単にストーリーだけでなく、絵のひとつひとつに思いが込められている。だから、この映画から心が揺さぶられ、強く響くのだ。

  5年ぶりの作品と聞くが、完成まで生みの苦しみが多々あったと想像する。しかし、日本にこのような映画があることは誇らしい。スタジオジブリに続き、もっと多くのアニメーター達も影響を受け頑張ってもらいたい。萌え系のアニメが席捲する現在は異常である。そこに大きな一石となることを切に願う。

  このような偉大な作品を制作してくれた宮崎駿監督に拍手を送りたい。


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「あまちゃん」、小泉今日子と薬師丸ひろ子の共演にクドカンの仕掛花火 [文化・歴史・芸術]

  NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が視聴率20%越えで絶好調。「じぇじぇじぇ!」もすっかり流行語。とにかくドラマに勢いがある。

  主役の天野アキ(能年玲奈)は役柄通りあまり目立つタイプではなく、どちらかと言えば普通の子に観える。だが、個性派だらけのベテラン脇役陣の中、その「普通さ」が逆に浮き上がってくるから不思議、彼女から溢れる「純粋さ、明るさ、天然?」が強烈な個性も跳ね飛ばしている感じだ。この絶妙なバランスがとてもナイスである。

  さて、このドラマの中で感心することがある。それは常に「人との絆」が主題になっていることだ。主人公アキを中心にみんなが人を想い、人を支えることに一生懸命になっている。そして、それぞれの立場(親、子、友人、知人、地域の人たち)で一緒に悩み、喜び、怒り、楽しみ、このドラマは進んでいく。忘れてはならない人間味のある生活や社会の大切さを天才脚本家、宮藤官九郎・クドカンはさりげなく訴えているのではないだろうか。

  そんな彼がこのドラマに様々な仕掛け花火をしているというが、私が最も驚いたのは、何と言っても小泉今日子、薬師丸ひろ子を同じドラマに登場させたことだ。

  この2人は80年代の国民的なスーパーアイドル、20年経った今でもその輝きを失うどころか、さらに魅力を増して「素敵な女優」になっている。でも考えてみれば同世代の彼女らはこれまで別々の道を歩み、ほとんど接点はなかったのではないか。ドラマでこの二人が対面する場面があると思うが、その時、どんな空気が漂うのだろうか、ドラマの役である天野春子と鈴鹿ひろ美、そして実在の小泉今日子と薬師丸ひろ子、同時に2人の人物像が大きく相乗し、劇的な場面になると秘かに期待している。さらに、鈴鹿ひろ美が自分のデビュー作「潮騒のメロディー」の主題歌を歌ったのが、実はアキの母親天野春子と知った時、果たしてどんなサプライズ場面があるのか、クドカンの仕掛け花火、実に楽しみだ。

  ドラマも後半に入り、やがて3.11の大震災に突入していく。今は芸能界のドタバタ劇が話の中心であるが、やがて生死をともなう壮絶なテーマが絡んでいく。現在の軽快なテンポから重苦しい内容をどのように料理していくか、これもクドカンの腕の見せ所。たとえ、悲惨な場面になろうとも、最後はオープニングのテーマ音楽のように、元気の出るエンディングに導いてくれると信じている。とにかく、毎日の展開が楽しみだ。


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大河ドラマ「平清盛」最低視聴率。でも見応えがあった。 [文化・歴史・芸術]

  NHK大河ドラマ平清盛が歴代最低視聴率で終わったようだ。歴史好きな私は毎週楽しみに観ていたが、たしかにとっつきにくい内容であった。特に登場人物が親しみにくい平安貴族や皇族ばかりで、その人間関係も複雑でわかりにくい。さらにゆったりした生活描写なども現代とギャップがあり過ぎて違和感を感じてしまう。またこの時代は戦国や江戸、幕末と違って馴染みが薄く、さらに平清盛も権力亡者のイメージが強くて歴史上の人物の中でも人気が低い。そうしたことも視聴率が伸び悩んだ原因ではないだろうか。

  しかしながら、松山ケンイチ演じる清盛は見応えがあり、彼の役者としての才能や魅力がキラリと光っていた。また若手、ベテランの味のある演技もあり、作品としてはなかなかの出来栄えだ。視聴率に関係なく、やはり大河ドラマである。

  ところで、この物語は平清盛を中心とした平家の栄枯盛衰が描いたものであるが、現代日本社会の状況と幾分重なる面も多い。そうなるとあまり良い話ではないが、歴史をそうして観察するのも面白い。

   現代日本を終戦後からスタートとすると、焼野原の無一文から、ひたすら国の再興を目標にひたすら働き、やがて高度経済成長を経て、30年後には戦勝国アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国にのし上がった。事実上、世界のトップである。ここまでは順風万帆に進んでいたが、90年代のバブル経済を頂点して歯車が狂い始めた。それから20年、経済成長が止まり、デフレ不況、格差拡大、借金の積み重ねで国家財政危機が懸念されるなど、平家一門が辿った「衰」の道とどことなく似ている。

  その中で気がかりなのが、「驕れる(おごれ)人も久しからず」。武士であることをすっかり忘れ、公家になりきった平家はその時すでに衰退が始まっていた。日本も金持ち国家になった途端に昔の困窮していた時代を忘れ、世界の中でも「驕れる人」となった。数十年に及ぶ経済的な豊かさが、国民の生活水準や意識をすっかり変えてしまい、経済が下降線になっても、豊かな水準から脱却できず、それが少し落ちただけでも不幸を嘆く、いわゆる平家物語の貴族社会になってしまった。

  もうひとつの驕りは、自分たちが世界でもトップレベル先進国でアジアでは最も優秀な人種だと信じ込み、新興国の人達を常に見下していることだ。また日本には高い技術力があり、彼らは到底追いつけるはずがないという驕りや油断も根っから浸みついている。それが紙一重の差に縮まり、もはや能力的な貯金も底をついたことに気づかなければいけない。

  これまで最強の国際競争力を誇ってきたソニーやパナソニック等の製造メーカーも、最近では台湾や韓国などの新興国企業に負けが続いていおり、貿易収支にも赤信号がともっている。円高の問題だけではない。いまの日本人の気質は輝きがあった時代とは明らかに違う。そこに本質的な問題が潜んでいるのだ。

  若者たちの就活では安定した企業ばかり狙い、苦しい仕事は極力避けている。また、将来に対する夢を語る者も少ないという。また年配者は自分の生活の不満ばかり口にして、将来の人たちの事はあまり考えていない。毎年3万人の自殺者を出す社会は異常そのものだ。みんなが嫌な事を避け、楽で安全で安定したところを望む。それだけでは弱肉強食の世界で通用するはずがない。

   いま大事なことは、本当の日本の実力を知ることではないだろうか。資源もなく、軍事力もない。食料も十分自給自足できなければ、エネルギーの100%を外国から買わなければならない。結局、あるのは人の力だけである。その力を十分発揮できなければ、食べていけない国であることを自覚することだ。

  「癒し」や「絆」などゆるい言葉ばかりがもてはやされる昨今であるが、生きていくこと、食べることがどんなに大変で努力しなければならないか、恵まれた世の中で育ったいまの若者たちにそれを教えなければならない。平清盛の子供たちが弓矢等の武術を習っている時、雅(みやび)な世界にいる自分が、なぜこんなことをやらなければならないのかと理解に苦しんでいたが、まさにそれと同じ状況である。

   いま政治はまた財政出動や金融緩和など、甘やかしの政策を実施しようとしている。まだ体力のあるうちに厳しい道を選ぶべきと思うが、平家が雅(みやび)の世界から抜けられなかったのと同様にいまの国民は豊かさを手放したくないのだ。どこかで方向転換しなければ、本当に平家物語になってしまうようでならない。考え過ぎかもしれないが、このドラマからそんなことを連想するのだった。


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「日本橋」に風情ある景観を取り戻そう。 [文化・歴史・芸術]

  「日本橋」といえば、すぐに頭に浮かぶのは、安藤広重の版画「東海道五十三次」の一番所ではなかろうか。大きな太鼓橋に威勢の良い商人や町人、そして旅人など大勢で賑わい、活気に満ちた、まさに大江戸のシンボル的イメージが連想される。

  歴史的にみても、日本橋界隈は、江戸の台所となる魚河岸や三井越後屋や白木屋など大商店が店が連なり、商業経済の中心的役割を果たしてきた。また、日本橋は東海道や中山道などの五街道の起点であり、あらゆる面で格別な存在でもあった。

  その由緒ある日本を代表する橋は、いまでは首都高速の高架下、かつての威光や輝きは見る影を潜めている。もはや川を跨(また)ぐただの橋でしかない。もし、江戸の人々が、この姿を観たらどんなに嘆くことか。現代に生きる日本人として、その責を感じざるを得ない。

  そもそも、こうなった事情には高度経済成長前の急ぎ過ぎた高速道路行政にあったようだ。当時、東京オリンピック開催に向けて、土地取得を進めていたが、当然のことながら、一般地域での買収には難航し、その手間が省ける秘策として、堀の上に道路を設ける案が浮上してきたという。その結果、橋の頭上の、あのうっとしい構造物が出来上がったという訳だ。 それから50年、首都高もすっかり老朽化し、また、シンボルを欠いた街は人々の賑わいからすっかり遠ざかり、観光地として人々を引き付ける力も大きく低減した。

  そうした中、「日本橋」を東京のシンボルとして、もう一度復活させようと、橋の上の高架を撤去して、高速道路を地下に埋め込む運動が浮上してきた。数年前から持ち上がっている「日本橋再生計画」である。数兆円規模の莫大な費用が伴うため、実現化するには幾多のハードルが予想されるが、こうした提案が出てきたことは非常に喜ばしい。

  日本橋の再生は、おそらく誰もが賛成と思う。江戸時代でも、一番の人気は景勝地や史跡場所を抑えて、日本橋らしい。やはり、人々は大勢集まる元気な場所に惹かれるものだ。昭和の中頃までの数百年、トップランナーとして走ってきたこの場所は、そうした多くの人の喜びや悲しみ、そして様々な出来事が、歴史の記憶として染みついている。だから、潜在的で不思議な魅力を感じてしまうのだ。

  また、この地で積み上げられたは江戸の文化、伝統は、時代が変わり、新しいカタチになっても、いまだに深く根付いている。もし、橋の上の青空を取り戻せれば、単なる景観の復興だけでなく、そうした無形文化の再興にもつながり、地域全体の活力を取り戻す大きな原動力になるに違いない。また、現在、景観に不一致なビルデザインにも、「日本橋らしさとは何か」という一石が投じられ、街全体の文化的再構築につながることを期待する。とにかく、「日本橋」が大江戸・東京の中心名所として誇れる場所になることを心から願う。

  この日本橋再生計画、東日本の復興や原発問題で、それどころではないという意見もあろう。しかし、無駄に思えることにも有益なことは多い。祭りもこれといって実益的な意味はないが、なぜか人々の心にエネルギーを与えてくれる。同じように日本橋に青空が戻るとともに、江戸の粋(イキ)な文化も舞い戻り、日本を元気にしてくれるような気がする。ぜひ、実現に向けて頑張ってもらいたい。


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日本の美は、奥行の美学だ。 [文化・歴史・芸術]

  日本の商品はデザインがいまいち。これが専らの評であった。 ヨーロッパやアメリカ、家電製品では韓国も洗練されたデザインである。それに比べて日本製品はどうも野暮ったく見える。日本はデザイン後進国なのか。

  最近、ビールやお菓子をはじめ、昭和レトロの復興版が人気を集めている。あのころは、ダサいと感じたものが、いま見ると実に新鮮で、人間味溢れるデザインに思えることも多々ある。建物についても最近のものより、大正や昭和初期に建てられた建築物の方が、日本独特で逆に味わい深いものがある。

  デザインや美についての定かな基準や定義はない。でも、人は美に対する何かの基準を持っている。それは、人の価値観によるところが大きいと思うが、それで良し悪しを決めてしまうケースが多い。

  我々の感性は、いつも揺れており、また、どこかで洗脳され続けている。テレビで流れるコマーシャル、雑誌などでこれは良いデザインで、これは悪いデザインなど、知らず知らずの間に、外側からその美学を押し付けられている。結局、その時に認知した流行や世の中の雰囲気が判断基準になり、固定観念で見定めてしまっていることも多い。だから、時間が経って、改めて見直すとその良さに気づき、「これはダサいのではなく、そのものの個性だ」とわかる。

  一方、日本の美はわかりにくいのも事実だ。究極の美はやはり風流とよばれる茶碗や庭園など、自然の素材を最大限活かし、そこから美を追求したものだ。国宝級の茶碗など、受け手が、それなりの感性を持っていなければ、ただの出来損ないの焼き物にしか見ない。しかし、その茶碗は、作り手の神かがった美意識と熟練した技術で成しえた最高傑作なのだ。美を飾らずに、美を見せる手法、それが「和の美学」の真髄とも言える。世界どこを見回しても日本唯一の誇り高き文化である。

  日本は、そうした飾らない美が生活全般に溶け込んでおり、身の回りの多くのものに自然美が浸透している。西欧諸国のような明確な形状、色彩、飾りで美をつくる思想とは正反対で、むしろデザインの良さが見えにくい。 日本のデザインが「いまいち」という概念は、そうした文化の差、そして西欧諸国のデザイン感覚に洗脳された結果かもしれない。むしろ、日本のデザインの方が潜在的美しさがあり、奥行きのある美学なのかもしれない。そういう意味では、もっとデザイン文化に自信を持っていいのではないか。


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「おもてなし文化」をはじめ、日本のガラパゴス的文化は世界にウケる。 [文化・歴史・芸術]

 日本のウケる文化はアニメだけでない。「おもてなし」も世界に広がりつつある。

 最近はこの「おもてなし」を求めて来日する海外の観光客も少なくないという。この海外輸出版と言おうか、石川県七尾市和倉温泉の老舗旅館加賀屋が台湾に進出した。建物は日本の温泉旅館そのもので、サービスも日本式。従業員は台湾人であるが、みな着物姿で、本店と同じようにお客をもてなす。従来の現地に合わせるやり方ではなく、とにかく日本流に徹しているそうだ。この旅館は台湾でも口コミが広がり、普段も満室が続いているとのことである。

 日本文化が異国の地で、異国の人によって継承されている状況は、とても不思議な感覚にさせられる。もっとも彼女たちは本家の和倉温泉で修業を積んでいるらしいが、カタチだけでなく、おもてなしの心までも、日本人のようであるから驚きである。

 これはひとつの事例に過ぎないが、このガラパゴス的に育まれた日本文化は、世界で十分通用する力を持っている。

 これまで日本の工業技術は最先端、超一流など言われていたが、あっという間に追いつかれ、今では一歩先を越されたものもたくさんある。ハードの世界では真似も簡単であるし、労働力の安価なところにはとても勝つことができない。でも、このおもてなし文化を韓国や中国がすぐに真似して、日本より優れたもにできるだろうか。それはありえない。文化的なソフトは、長い年月の歴史や習慣が息づいている。それを伝えること、真似することは容易にできるはずがない。ただし、それで安心していてはダメだ。老舗と言われながら潰れる店も多い。共通しているのはみんな胡坐をかいていたところだ。

 おもてなし、武士道、茶道、華道などは日本を代表する精神文化である。その他、外国人から観ると、日本には面白いものが色々転がっている。例えば、ユニットバスに、ウオシュレット、これは世界共通のものと思われるが、実は日本独特であるという。また日本食、日本茶、和菓子、などなどキリなくある。これらは、今まで日本の国だけでしか通用しないと考えられていたが、実はとんでもない普及力を秘めているのだ。

 そんなすごい資産を世界にもっと紹介していくべきであろう。アメリカがドルを通貨の基軸にして、世界の金融界を制したのと同じように、日本はこのガラパゴス的文化を世界の基軸するぐらいの野心で臨んでも良いと思う。昭和の時代は、工業国・経済大国日本で発展してきたが、これからは文化の国で世界の頂点をめざし、経済を発展させていくべきだろう。


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オヤジバンドで「夢」と「熱中」を教えられた。 [文化・歴史・芸術]

 NHKで「熱血オヤジバトル」という番組があった。オヤジバンドの東日本大会である。

 年齢は若い人で40才前半、グループ平均年齢が70才後半というグループもあったほどだから、上は80才台もいたのだろう。まあ、驚きである。

 全体的には50~60才台のオヤジ達が主体で、しっとりしたフォーク調から、激しいロックまでジャンルは様々。やはり、演奏する音楽は、その人達の青春時代である1960~70年代に流行ったスタイルのものが多かった。カッコ、雰囲気もその時代そのものである。

 番組では、エピソードも交えながら、彼らの歌を紹介していたが、普段の姿とそのステージで歌い演奏する姿の大きなギャップが面白い。殆どの人は普通のサラリーマンや公務員、自営業、中には学校の校長や副校長で組んでいるグループもあった。これまた様々でユニークである。おそらく、普段の仕事からは想像できないパフォーマンスだろう。

 彼らの共通しているのは、若いころ音楽にめちゃくちゃに熱中したけれど、やがて就職し、音楽とはかけ離れた世界で仕事づめ。でも、音楽は忘れきれず、気がつけば人生の後半。そんな時に、もう一度、好きな音楽をやってみようと発奮し、同じ想いの仲間を集めてバンドグループを結成。そして、この大会に臨んだ人達も多いようだ。みんな立派なオヤジだが、彼らの想いは若者というよりも、ガキに近いのではと思うほど夢とエネルギーに満ち溢れている。

 彼らの音楽はプロと比較すれば、まだまだ未熟な域だろうが、プロから味わえない様々な人間味が伝わってくる。それは音楽を職業としているミュージシャンとは違い、自ら楽しみ、そして、みんなと楽しくやろうとする素人的サービス感だ。こちらも歌や演奏のうまさよりも、その人たちの人生観や充実感みたいなものを意識してしまう。そこも、素人オヤジバンドの魅力の1つであろう。

 近年、無気力で覇気がない若者が増え、「夢」とか「熱中」という言葉さえ、どこか遠く感じる。夢も安全、安心なものばかりで、熱く、熱中するものは敬遠されがちだ。そこでオヤジ達の熱いバンドがガンガン若者と競い合い、大きな刺激を与えてくれれば、少し世の中が面白くなってくる。

 若者だけでなく、仕事に疲れきり、しょぼくれたオヤジ達も多い。この人達にも刺激的なカンフル剤だ。年をとっても、まだ青春は続く。そんな証明を、彼らはやってくれている。 

 夢は若者だけの特権ではなく、年齢にも関係ない。また、自分でつくるものであり、抱き続ける大事さを、この熱きオヤジ達から教えられたような気がする。


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植村花菜「トイレの神様」ちょっと懐かしく、心温まる歌だ。 [文化・歴史・芸術]

 久々に心に響く曲を聴いた。「トイレの神様」だ。 この曲の歌詞がとてもいい。流行ったのはだいぶ前のようだが、自分が知ったのは昨年の紅白歌合戦の時である。この曲だけが妙に印象に残った。

トイレには それはそれは キレイな

女神様がいるんやで

だから毎日 キレイにしたら 女神様みたいに

 べっぴんさんになれるんやで

その日から私はトイレを

 ピカピカにし始めた

べっぴんさんに絶対なりたくて

毎日磨いてた

 まだまだ歌詞は長く続く。けど実にこころ温まる曲だ。また、この歌はなぜか懐かしい。たぶん、おばあちゃんのユーモラスさが、ひと昔前のほのぼのとした昭和の空気を思い出させてくれるのだろう。とてもチャーミングなおばあちゃんが目に浮かぶ。

  神様もいろいろいるが、トイレの神様はとてもいい。いまの時代に、神様を信じる子供はほとんどいない。それは大人が信じていないのだから、子供が信じるはずがない。

  トイレの神様を信じた女の子のおばあちゃんは、きっと信心深い人だったと思う。だから、女の子はひたむきに一生懸命、トイレを磨いたに違いない。おばあちゃんの信じている神様を信じていたから。

 おばあちゃんと女の子。とても大切にしていた人とのつながり、絆。だけど彼女が大人になるにつれ、その気持ちは希薄になり、おばあちゃんの死とともにそのかけがえのない思いやりや絆を改めて気付いていく。 この曲はそうした目に見えない大切なものを、上手く表現している。

 この歌は植村花菜本人の思い出であろうが、なぜか自分にも身近に感じ、ふと昔を思い出し懐かしくなる。久々に出てきた心を歌うシンガーソングライターだ。今後の活躍を期待したい。

トイレの神様

トイレの神様

  • 作者: 植村 花菜
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2010/07/09
  • メディア: 単行本


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NHKスペシャル「邪馬台国を掘る」 古代ロマンを楽しむ。 [文化・歴史・芸術]

 昨日、NHKスペシャル「邪馬台国を掘る」を観た。

 古代邪馬台国ファンにはワクワクさせる番組である。現在もその所在地を巡って九州説と近畿説の熱い論争が繰り広げられている。今回の番組では、佐賀県の吉野ヶ里遺跡と奈良県纏向遺跡に焦点が当てられ、その発掘品の1つ1つから、邪馬台国の存在の可能性をひもとく作業を、専門家たちの話を交えながらわかりやすく解説してくれた。

 邪馬台国といえば、3世紀に日本列島に存在された国で、中国の史書「魏志倭人伝」には、30ヶ国からなる連合国家に卑弥呼という女王が治めていたと記されている。この歴史的史実から様々な憶測が生まれ、邪馬台国の候補地は幾多にも及んでいる。学説的には低いが沖縄説もあるくらいだ。

 しかし、それもいい。古代を知ろうとするのは、宇宙と同じくらい未知とロマンの世界が広がる。

 謎の邪馬台国、その存在を立証する最大の手掛かりは中国(魏)との関係にある。倭国の中心国家であることは、当然魏と関係も緊密と考えられる。すなわち貢物の交換や文化的影響は非常に有力な条件であるのだ。

 魏との関係を示すものとして、吉野ヶ里遺跡では、多くの鉄器が出土された。当時の日本は銅文化が主体であり、一般的に鉄は使用されていない。特にここで発掘された鉄剣は当時の中国で使用されているものと同じもので、まさに特別な関係があったことが想像される。

 もう一方の纏向遺跡では、大量の桃の種が出土された。この発見は実に面白いものである。桃は中国で神聖な果実とされ、祭事の時に供えられるものだ。卑弥呼は鬼道により国を治めていると記されている。鬼道とは中国から伝わった宗教的儀式で、ここで発見された桃の種が祭事に供えられたものであるならば、大陸との関係は非常に濃厚となり、史実と一致する。

 また、もうひとつの面白い発見がある。銅鉾のかけらの一部である。なぜ、かけらなのか。その疑問に応えるべく、専門家が色々推論を立て、実証実験から1つの論拠を導き出した。

 それは、当時の弥生文化は作物の豊作を願うため、銅鉾を叩きながら祈る風習があった。しかし、大陸から鬼道による祈りが中心になり、その際、銅鉾を否定する思想が出てきたのではないかというものだ。そこで邪魔になった銅鉾を粉々に破壊したのではという推論である。

 実験で銅鉾を焼いて叩きつぶすと、発見されたかけらのように細かく砕け散った。その場面を観て思わず頷き、個人的には近畿説に傾いた。

 どちらも、それぞれそれぞれの説得性があり、また、ちょっと論拠不足の点もある。とにかく、決定的な証拠が発見されなければ、この決着はない。

 発掘する箇所はまだあるようだ。1つの発掘現場でもすごい労力、根気が必要であり、また何も得ることがない事も多そうだ。しかし、発掘を指揮している専門達はお互い確信を持ちながら研究、発掘を進めている。

 邪馬台国は日本のルーツであり、ルーツを知ることは現在の我々を知ることにもなる。邪馬台国とヤマト王朝の関係も明らかになれば、日本史が一変してしまうかもしれない。世紀の大発見になるかどうか、また、新しい進展と報告が楽しみである。

邪馬台国はどこですか? (創元推理文庫)

邪馬台国はどこですか? (創元推理文庫)

  • 作者: 鯨 統一郎
  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 1998/05
  • メディア: 文庫

図説 地図とあらすじでわかる!邪馬台国 (青春新書INTELLIGENCE)

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  • 作者: 千田 稔
  • 出版社/メーカー: 青春出版社
  • 発売日: 2010/04/02
  • メディア: 新書

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萌えキャラの日本鬼子、恐るべし日本アニメオタク文化。 [文化・歴史・芸術]

 日本鬼子(ひのもとおにこ)が萌えキャラでネット上に登場した。

 この日本鬼子は、中国人が日本人を最大限に侮辱するとき使う表現で、尖閣諸島問題で中国人が反日デモをしていた時にも、プラカードによく見かけられ言葉である。

 日本政府が中国にやられ放題の中、2ちゃんねるの日本のアニメオタクたちが立ち上がった。中国の力づくの暴挙に対して、日本得意の「萌え萌え攻撃」で、打ち負かそうという作戦である。

 日本鬼子のキャラはいろいろあり、美人のお姉さん系から、かわいいメイド系、また愛くるしい女の子系など様々あり、頭にはかわいい角が生えているが、恐ろしい鬼とはまったく対照的で人懐(なつ)っこく、優しそうである。また、手になぎなたを持ち、夜叉の面を頭に被った着物姿の美人の鬼子が最も代表的で、なかなかカッコがいい。

 日本鬼子.jpg

  この話題はすでに海外でも取り上げられ、様々な波紋を呼んでいる。中国国内の百度で検索するとこの萌えキャラの日本鬼子が出現するらしく、中国人も困惑しているようだ。中国人にしてみれば侮辱して、日本人の怒る顔を見たいところなのだろうが、これでは腰砕けである。ことわざに例えるならば、「ぬかにクギ」とでも言おうか、日本人にムキになっても、自分たちが疲れるだけと悟るのではないだろうか。

 先週、中国はGDPで日本を抜いて、世界第2位の経済大国が確実になった。外交も軍事力をバックに力づくに迫まる姿勢が顕著になり、日本も手こずるばかりである。そんな中国を相手に文化で喧嘩をしようなんて、日本のオタクたちはなかなかの文化人である。

 この日本鬼子運動は実に良い着眼点と思うが、日本人の反応はどうであろうか。意外とその意味を知る者は少ない。逆に何も知らない若者たちが、この愛くるしいキャラを見たら悪い印象を受けることはなく、すぐに萌えキャラに馴染んでしまうだろう。

 この鬼子は、例え侮辱されても、それを跳ね返すだけの品格をもっている。彼女を創造したアニメーターの才能は実にすごい。

 これからは、日本鬼子を世界平和の象徴にし、世界中の人たちに尊敬させるぐらいのキャラクターに育て上げられれば、すごいことだ。ぜひ、そこまで広めてもらいたい。

 残虐で卑劣とされた鬼の正体は、実はかわいい心優しい女の子というのは、もしかしたら中国の若い世代には受け入れられるかもしれない。日本発の萌え萌え文化は平和に役立つかもしれない。


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「坂の上の雲」 明治という時代をしっかり見るべき。 [文化・歴史・芸術]

 昨年の暮れにNHKで放映した坂の上の雲、第2部はやや低視聴率で終わった。

 しかし、視聴率に関係なく、内容が実に濃く、すごいドラマであった。

 今回のストリーは主人公の1人である正岡子規の死から始まり、そして世の中が、大きなうねりと伴に次の戦争の時代へと流れていく。その中でもう一人の主人公の秋山真之、好古兄弟を通して激動の時代を描いている。

 考えてみると、この時代のことはあまり語られていない。そもそも、なぜ日本が軍国化したのか、なぜ戦争をしなけらばならなかったのか、ほとんどの若者は知らないと思う。明治のこの時期は、国としても、経済・産業、そして文化にしても、躍動的でドラマチックに満ちた時代であるはずなのに、日本人の歴史観から、その記憶が消されているような気がする。

 近代の日本史は、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通の幕末から明治維新初期で一区切りされ、次の歴史は真珠湾攻撃、東条英機、そして広島、長崎の原爆、終戦から始まるような気がする。その間の歴史は教科書で事実だけを淡々と知らされている程度で、実際の生々しいドラマは消去されているようにさえ思える。それは、戦後、進駐軍が日本を無能化するために色々な施策を採った1つではないだろうか。日本人に戦争責任を押し付けるために、都合の悪い事実を知らせないのが一番手っ取り早い。

 坂の上の雲では、ロシア帝国の脅威、恐怖から、日本の軍国化が進んでいくことが描かれている。当時、新国家を建設した日本が最も警戒していたことは西欧の属国になることだ。彼らの国力、軍事力、そして文化の差は、嫌というほど知らされている。近隣大国の清国が無残にもそうした属国化したことに強い危機感があったのは間違いない。そうなればどうするか。どこの国でも当然軍事的な防御態勢を整えるのは当然の流れである。ただ、日本はそれ以上に、欧米の強国と肩を並べるべく野心を抱いたことが、その後の方向性を築いてしまったのだろう。それが過ちか。いや、当時の弱肉強食、世界全体が軍事力優先の時代に、必ずしも間違った進路をとったとは言い切れない。ただ行きすぎたのだ。

 近年、近隣アジア諸国と教科書、領土、歴史問題などで、ぎくしゃくした関係が続く。1つには第二次世界大戦の戦争責任、それを重く受け止めることは大切だが、それよりも日本人が自国の歴史、特に近代を知らなさすぎることに問題があると思う。こうしたことが相手国に対して冷静に対処できなく、また、いつまでも言われっぱなしで、毅然とした反論もできていない。ともあれ、坂の上の雲の明治時代から近代アジア史が始まったといっても過言ではない。もちろん負の部分も多いことは間違いない。しかし、そこも目を瞑(つぶ)らず、また日本が近代に賭けた理想と現実を直視することが、これからの日本が進むべき道もはっきりしてくるのではないだろうか。

 来年12月、第3部最終編である。それまでに司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読み直し、もう一度、明治時代を考えてみたい。

坂の上の雲 全8巻セット (新装版) (文春文庫)

坂の上の雲 全8巻セット (新装版) (文春文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2010/07/15
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タグ:坂の上の雲
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映画「This is it」に、あらためてマイケルジャクソンの偉大さを知る。 [文化・歴史・芸術]

 先日テレビでマイケルジャクソンの「This is it」ノーカット版が放映された。話題の映画なので取り合えず録画したが、なかなか観る時間がとれず、今日やっと観賞することができた。

 私は特にマイケルファンではないが、これを観て彼のすごさ、世界観をあらためて知り、今になって本当に貴重な人物を失ったのだと強い残念さを覚えた。

 まず、これがロンドン公演のリハーサルというが、この映像はどう見ても本番そのものだ。なぜなら、そのステージは緊張、真剣さに満ち溢れ、そしてスキがない。極めて高い完成度のリハーサルである。映画撮りということもあるが、なぜ、こんなに凄いのだろうか。これがマイケルワールドなのだろう。

 それから、マイケルジャクソンの魅力は何と言っても、群を抜いた歌と踊りの才能だ。それは芸術の域に達している。そして、彼を取り巻く、すべてが超一流である。共演するミュージシャン、舞台演出家、衣裳や振り付けもそうだが、どれも際立っている。そこに彼の才能と完全主義がうまく入り込み、最高のステージを実現させるのだろう。このThis is itはそれを見事に表現している。

 マイケルジャクソンが生きている頃には、整形や子どもの虐待、奇怪な行動など、常に批判に満ちた話題が目立った。でも、この世を去ったいま、改めてこの映像をみると、マイケルのひたむきな姿が妙に浮かび上がってくる。エンターテーメントの世界では頂点まで登りつめたが、決して驕り高ぶっていない。そんな彼に対して、我々は何か偏見を持ち、誤解してきたような気がする。今になって、ちょっと後味の悪い気がしてならない。

 しかし、この映画のすばらしい出来栄えに感動するが、何といっても驚きなのは、この映像が死の直前に撮影されたものであること。たしか死の原因は、体が痛くて鎮静剤を多量に打ったことにあると思うが、この映画を撮影した時には体がボロボロだったはずだ。しかし、どうだろう、あの映像にはそんな状況は微塵も感じられない。しかも50才を過ぎる年齢にもかかわらず、あの動きのキレは20代のプロでも真似できないのではなかろうか。そこが、かれの神がかった、キング・オブ・ポップと言われる所以であろう。

 そんなマイケルが、別の素顔を表した場面があった。リハーサルを終え、みんなの前で挨拶した時のことである。そのメッセージが非常に印象的であった。正しく覚えていないが、意味としては、このステージを通して、人類の愛と環境破壊から地球を守ること、環境の大切さ、命の大切さを、歌や踊りを通じてみんなに伝えたいということだ。

 これを企画、プロデュースしている人達は、この興行でいくら儲かるか、そればかり考えているかもしれない。しかし、彼には違った想いが観えてくる。この舞台で人々を楽しませ、そして世界中を平和にしたいという願いである。

 きっと、彼の想いは、ジョンレノンと同様、人々の心に永遠と伝わり続けるだろう。まさにキング・オブ・ポップである。

スリラー マイケル・ジャクソンがポップ・ミュージックを変えた瞬間

スリラー マイケル・ジャクソンがポップ・ミュージックを変えた瞬間

  • 作者: ネルソン・ジョージ
  • 出版社/メーカー: シンコーミュージック・エンタテイメント
  • 発売日: 2010/12/15
  • メディア: 単行本


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今年の年間CDベスト10はAKB48と嵐だけ。なぜそうなった? [文化・歴史・芸術]

 12月も後半、街中いたるところで光のイルミネーション、そしてクリスマスソングがあふれている。

 よく耳にするのは、マライヤキャリーの「メリークリスマス」、ワムの「ワンダフルクリスマス」、たまにジョンとヨーコの「ハッピークリスマス」、日本の曲では山下達郎の「クリスマスイブ」。いずれも80~90年代の定盤だ。しかし、50~60年代のクラシカルなスタンダードナンバーもいい。代表格はやはりビングクロスビーの「ホワイトクリスマス」、個人的にはドリス・ディの「シルバーベルズ」が好きだ。これらの曲は昔懐かしい気分にしてくれ、クリスマス独特の雰囲気を盛り上げてくれる。

  さて、今朝のNHKニュースで、今年一年間の日本でのCD売上ベスト10が取り上げられた。なぜ、こんな話題がNHKで取り上げられるのか不思議に思ったが、どうやらこの世界で大異変が起きているらしい。

 例えば10年前のベスト10では、一位はサザンオールスターズのTUNAMI、2位は福山雅治、その他、浜崎あゆみ、宇多田ヒカルなどそうそうたる個性的なミュージシャンが名を連ねていた。ところが今年のベスト10では、すべてがAKB48と嵐の2グループで占められていたのだ。これはいままでにない現象だという。

 このニュースではAKB48の若い男性ファンに注目し、なぜ、このような現象が起こるのか追跡し、彼の行動から驚くべき事実が見えてきた。

 というのは、彼のかばんから同じCDが20枚も出てきたのだ。でもどうして、同じCDがそんなにあるのか不思議である。例えば、彼が他の知り合いのファンに配るのかと思ったら、そうではない。

  実はAKB48のイベントに行くと、そこで販売されているCDには「握手券」というものが付いていて、そこに書かれたアイドルと一定の時間、お話や握手など、ふれあいを持つことができると言う。だから、熱烈ファンは1人でも多くのアイドルとふれあいたいと思うあまりに、何枚もCDを買ってしまうらしい。

 まあ、すごいビジネスモデルである。その結果、AKB48や嵐など熱烈なファン層を持つグループのCD売上が、ケタ違いに伸びるしくみになっているのだ。

 歌や音楽が良くて、ヒットを飛ばす時代は過ぎ、売るためには何でも有りという時代に変わってしまったようだ。近年、携帯のダウンロードでCDの売上は大幅に減少していく中、こうした戦略も止むを得ないと思うが非常に寂しい気持ちになる。

 AKB48や嵐も本人達はいい曲を歌っているが、それを取り巻くプロダクションやCD販売会社等が、ファンの純真な気持ちにつけ込んで、少しでもお金を引き出そうとしている様に見えてならない。音楽を楽しみにしている者としては、ちょっと異議を申し立てたい。できるならば、本当に歌や音楽でファンを感動させ、心に残るものにして欲しいものだ。

 そうしてみると、スタンダードナンバーである数々のクリスマスソングはすばらしい。ホワイトクリスマスは感動的な名曲である。このような心にしみる歌や音楽が毎年創り出されると、世の中が本当に豊かになりそうだ。 この世界、あまり商業主義に走らないでもらいたい。

White Christmas

White Christmas

  • アーティスト: Bing Crosby
  • 出版社/メーカー: Mca Special Products
  • 発売日: 1995/06/01
  • メディア: CD


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「坂の上の雲」からのメッセージを考える。 [文化・歴史・芸術]

 「坂の上の雲」を観ると、元気が湧いてくる。いよいよ12月5日から第二部が始まる。

NHKスペシャルドラマ・ガイド 坂の上の雲 第2部 (教養・文化シリーズ)

NHKスペシャルドラマ・ガイド 坂の上の雲 第2部 (教養・文化シリーズ)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2010/10/25
  • メディア: ムック

 明治維新初期は、文明開化に沸いて、皆が希望に満ち、活気が溢れる時代のイメージが漂う。しかし、実際は想像がつかないくらい国家も庶民も貧乏で、交通などの社会基盤ですら殆ど整っておらず、それに加え欧米、ロシアなど強国からは常に脅威にさらされていた。まさにヨチヨチ歩きで苦難に満ちた時代であった。

 主人公となる秋山好古、真之、そして正岡子規、彼らは同じ旧松山藩で生まれ、激動する社会の中で成長していく。やがて好古、真之は軍人として国を背負い、のちの日露戦争で奇跡の勝利を導く活躍をする。一方、子規は俳句という古典を近代文学に蘇らせ、日本近代文学のすそ野を広げる遺業を成し遂げた。いずれも、この時代に大きな功績を残す人物達である。このドラマは、そんな波乱万丈に満ちた彼らの人生に、ひたむきに、そして力強く生きていく姿を描いている。

 この時代の特徴として、早く欧米強国と肩を並べた国家にしたいという思いが人々の意識の中にあり、また個人も自立に対する執着心が強かったように思える。それゆえ、好古、真之の「凄み」「潔さ」「清々しさ」、子規の旺盛な好奇心、バイタリティーは際立って映る。

 いずれも自立自尊の精神がこの時代を貫いている。主人公の彼らは歴史に名を残した特別な存在だが、この精神、気質は、一般庶民にも共通してあったように思える。だから、明治時代のイメージはどことなく明るく、力強さを感じさせるのではないだろうか。

 それに比べて現代はというと、実に軟弱である。人々を取り巻く環境が整い過ぎるくらい平和で良い社会である。でも、多くの人たちが心に「鬱」を持ち、物事をすぐに投げ出してしまう傾向がある。国家も人民もみな煮えきれない。辛抱や忍耐とか、子どもの頃から訓練されずに育っているから、大人になって耐えることを要求されても、心が先に折れてしまうのも無理はない。そして、国家、政治もそれと類似しているから、実に情けない。

 日本の凋落はすでに始まっており、世界第2位の経済大国はもう過去の栄光である。このままでは新興国にも抜かれ本当に中流の国家になってしまいうのではと不安を覚える。このドラマでは、国家の力の源泉は人であることを示している。その国の人がどれだけ元気で活気があるか。また、苦難を乗り切る気迫があるか。それが力となり富となる。自立自尊はそれがなければ達成できないことも感じられる。

 しかし、坂の上の雲をみると、日本人には苦境を乗り切る忍耐力、教養、そして楽観性を潜在的に持っていることがうかがえる。自分もこのドラマをみると元気になる理由は、たぶん、そうした潜在的観念が呼び覚まされているからではないかと思うのだ。

 原作者の司馬遼太郎さんは歴史小説を通して、日本人の本質を追求してきた人だ。この「坂の上の雲」の小説は、おそらく、日本人が持っていたすばらしい精神性、魂を、後世の人達に伝えたかったのではないだろうか。そうであるならば、真剣に司馬さんのメッセージを受けとらなければならない。


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国立新美術館「陰影礼賛展」、光と影について思う。 [文化・歴史・芸術]

 今、東京・六本木の国立新美術館で、「影」をテーマに古今東西の作品を集めた企画展を行われているらしい。朝日新聞の「美に出会う」という紹介欄で、この展覧会を知ったが、なかなか面白い着眼点に興味を引かれた。

 その記事には、17世紀の画家フセーペ・デ・リベーラの肖像画「哲学者クラテース」、現代写真家アレクサンドルの「階段」、そして高松次郎の「影」の3つの個性的な作品の紹介があった。それらを見ると、それぞれの芸術的表現手法に違いがあるが、脇役であるはずの影が、作品のイメージを大きく引き立て、観る側に大きなインパクトを与えている。実に不思議な感覚で、光と影の表現のすごさを感じずにはいられなかった。また、記事の中では、芸術家達の影における思考錯誤も書かれており、日本画の平山郁夫や印象派のモネなどの展示作品では、どんな工夫が凝らされているか、そうした目で見るのも面白い。ただ、解説によると、影を意識的に描いた絵は、ルネッサンス期以降で、それより遡ると殆ど観られないそうだ。意外にも影の美の歴史は、そう古くないようである。

 考えてみれば、我々もあまり影を意識せず、常に明るいところばかり追い求めている気がする。確かに「影」は必要か問われれば、暑い時の日除け以外、その必要性は思い浮かばない。むしろ「影」には良いイメージはない。しかし、影は実に正直で、真実をはっきり映し出す。先ほどの作品を凄いと思ったのは、影が、哲学者の知性、冷静さを際立たせ、「階段」では人物よりも影の方に躍動感を見せ、そして、高松次郎の作品では人物の影の描写だけなのに本物以上の気配を感じさせてくれる。影がそんな強烈な力を持っていることを知らせてくれた。光と影について、あらためて考えさせられた記事である。

 さて、芸術の世界から離れて、今の社会を観ると、やはり人々は光ばかりを求めている。もっと景気が良くなり、老後や子育ても安心で、快適な環境で過ごせる幸せな生活、明るい事ばかり追い求めている。しかし、影の部分をもっと見つめなくてはいけない。自殺、虐待、失業、不況、これらは社会の影と言っていい。これはある意味で、日本の社会の実態を正確に映し出しているものだ。また、これらの影も何かに光を当てた時にできる産物であることを十分認識しなければならない。つまり、光なくして影はできるものではない。

 いま、政治の世界はこれらの影を無くすために、暗いところばかりを注視して対策を考えているように思える。実は、問題なのは影でなく、光の当て方、あるいは光を当てる対象物ではないだろうか。光はすべてが正しく、良いものとは限らない。自由、権利、民主主義、お金、これらは一見、まぶしい光に見えるかもしれない。しかし、実際はその扱い方で影は歪(いびつ)な形で、そして妙な強さで、且つたくさん出来てしまう可能性もある。個人の自由や権利ばかりを最優先する世界では他人への思いやりや配慮、あるいは協調がなくなり、不公平感や誰かが犠牲になる社会になってしまう。子供の虐待問題も、親が自分に光を浴びたいと思うあまり、子供達に影を強いている典型ではないだろうか。

 世の中に目を向けると、いま中国は破竹の勢いで急成長している。そのエネルギーは凄まじいものであるが、恐らくそれと同じ量の影がつくられている現実も直視しなければならないだろう。先ほどの作品ではないが、明るさ以上に影の持つ力は強い。影を軽んじる政策が続けば、結局不幸が広がるだけだ。日本も、高度経済成長、バブル経済を経て、社会の構造は大きく変化し、光と影のコンストラストも強くなり過ぎた。特に景気の良い時に見過ごされた影の部分は、この数年の不況の中で、さらに強調された感じである。

 その影をどう消していくか、日本の政治の光に対する考え方にかかっている。国民受けのいい政策ばかりでなく、地味な光でよいから、社会の影の部分を薄くし、きれいな影にしていくことが重要である。菅政権もこれからが本当のスタートである。政治の光と影、うまくコントロールし、調和のある社会を作ってもらいたいものである。
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国宝、「松林図屏風」を観れてよかった。 [文化・歴史・芸術]

 上野の国立美術館(平成館)で開催されている長谷川等伯展を見に行った。
長谷川等伯と言えば、桃山時代を代表する絵師で、金碧障壁画の「楓図壁貼付」や水墨画の「松林図屏風」は特に有名で国宝の中でも最高級の美術品と言われている。

 長谷川等伯という人は、今回の展示会までよく知らなかったが、結構苦労人のようである。
名門の出でもなく、能登の七尾で仏教絵画を描いていた田舎絵師で、若い時に上京し、筆一本で絵師の最高峰まで登りつめた人物であるが、決して順風満帆な人生ではなかったと言う。
当時は、室町時代から大名や寺院の大仕事は名門狩野派に独占され、彼が入り込む余地など殆ど皆無であったが、苦労を重ねた末、次第に力が認められ、最後は狩野永徳を凌ぐほどになった。現代では才能があれば若くして名声を得ることができるが、この時代はひたすら忍耐の積み重ねがなければ飛躍の芽もあり得なかっただろう。

 今回の展示会では仏画や人物からはじまり、山水図や花鳥図など自然を題材としたもの、桃山時代の華やかな金屏風、そして水墨画のふすま、屏風図など、実に多くの作品が展示されていた。とくに人物画はどれも品格、精神性を感じる。おそらく仏画を丁寧に描いていたことで、人物画にもその魂と精神が宿ったのかもしれない。また、山水画は大胆に岩や川が描かれ、木や花も必ずしも忠実的な描写だけでなく、大胆な図案にも驚かされる。まさに日本のデザインの原点がここにあるのではと思うほどである。

 展示の最後は国宝松林図屏風である。さすがにここは大混雑であった。この絵は何度かテレビや本で見たことがあるが、やはり本物でなくては、その凄さがわからない。絵の題材はただの松林であるが、墨の濃淡だけで、静寂な精神的な空間が創り出されている。いつまで観ても見飽きない、不思議な絵である。現在、絵画の技法や道具は等伯の時代とは比較できないほど進歩しているが、没後400年経ち、この水墨画を超えられたものはあるだろうか。

 絵には人の心がよく映し出されると言う。等伯の絵にはそれを感じさせてくれるものがあり、どちらかと言えば心を洗わされる感じのものが多い。それはおそらく仏画を描き、信仰心の厚い人物であったからだと思う。
結局、1時間半かけて鑑賞したが、実に内容の濃い展示会であったと思う。美術鑑賞で頭はすこぶるリフレッシュされたが、でも、体力的には非常に疲れた1日であった。

松林図屏風

松林図屏風

  • 作者: 萩 耿介
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
  • 発売日: 2008/11/29
  • メディア: 単行本


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たけしのコマンドール勲章、笑いと芸術の融合はすばらしい偉業だ。 [文化・歴史・芸術]

 数日前、ビートたけし、いや北野武がまたも信じられない勲章を受賞した。世界的に権威のあるフランスのコマンドール章だ。日本人でも数人しか受賞していない、ものすごい快挙である。

 考えてみるとこれまでたけしはただのお笑い番組で人を笑わせるだけでなく、「たけしの平成教育委員会」、「たけしの本当に怖い家庭の医学」、「たけしのテレビタックル」などの教育、医学や難しい政治の話を彼独特の切り口で笑いを交えながら一般庶民にも楽しめる世界を作り上げている。ひょっとしたら文化的な大偉業をさりげなくやっているのかもしれない。

 また、彼の映画は一味違うものがある。シリアスと笑い、そしてハッとするような映像。よく観れば絵画になる画面がいくつもでてくる。今は亡き映画評論家の淀川長春さんもその芸術性に賞賛していたし、あの黒澤明監督もたけしの映画を「僕は結構好きなんだよ。」と言っていた。興行成績はパッとせず一般人には殆どウケていないが、観る人が観ればその才能はわかるようだ。

 しかし、フランスをはじめヨーロッパでの「たけし人気」はすごい。贔屓(ひいき)なしの海外で評価されるのは、おそらく本物なのだろう。それに引き換え、日本では相変わらずいまいちの評価で賞をとっても殆どの人はピンと来ていない。オリンピックで金メダルを取ったら号外が出て、大騒ぎになるのに大々的に取り上げたのはスポーツ新聞くらいだ。日本ではまじめにコツコツ、苦労、努力している姿がなければ、決して賞賛されない。たけしもそうした努力もしているだろうが、おバカな事ばかりしているから、褒めたくても褒められないのかもしれない。

 きっと、今の日本ではそうした才能を持っている若者、あるいは子供たちの中にも優等生でないため褒められたり、評価されず埋もれてしまっている者も数多くいるような気がする。まあ、日本人はいつのまにか常識だらけの優等生になって、逆に本質を見抜く力が退化してきたのではないだろうか。

 たけしが受賞記者会見でのセリフであるが、「次は1日も早く日本の文化勲章をもらって人間国宝になること。その後、無銭飲食で捕まるのが夢」。たけし流の日本人離れしたジョークだ。頭が常識でガチガチになっていたら、こんな言葉は出てこない。でも、高い常識と教養があってこそ、あのようなおバカな言葉がでてくるのだ。

 まだ、アキレスと亀の映画を見ていないせいか、無性に気になって仕方がない。今、カルティエ財団美術館で開催している「たけしの絵描き小僧展」を観に来たフランス人女性が「芸術を観に来て笑えるなんてすばらしいことだわ。」と言っていた。たしかに、20世紀に難しくなりきった芸術を、もう一度庶民にも気軽に楽しめる位置に引き戻してくれてるのかもしれない。そんな偉業をフランス人は見逃さなかったのだろう。やはり、フランスは文化先進国だ。
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