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国立新美術館「陰影礼賛展」、光と影について思う。 [文化・歴史・芸術]

 今、東京・六本木の国立新美術館で、「影」をテーマに古今東西の作品を集めた企画展を行われているらしい。朝日新聞の「美に出会う」という紹介欄で、この展覧会を知ったが、なかなか面白い着眼点に興味を引かれた。

 その記事には、17世紀の画家フセーペ・デ・リベーラの肖像画「哲学者クラテース」、現代写真家アレクサンドルの「階段」、そして高松次郎の「影」の3つの個性的な作品の紹介があった。それらを見ると、それぞれの芸術的表現手法に違いがあるが、脇役であるはずの影が、作品のイメージを大きく引き立て、観る側に大きなインパクトを与えている。実に不思議な感覚で、光と影の表現のすごさを感じずにはいられなかった。また、記事の中では、芸術家達の影における思考錯誤も書かれており、日本画の平山郁夫や印象派のモネなどの展示作品では、どんな工夫が凝らされているか、そうした目で見るのも面白い。ただ、解説によると、影を意識的に描いた絵は、ルネッサンス期以降で、それより遡ると殆ど観られないそうだ。意外にも影の美の歴史は、そう古くないようである。

 考えてみれば、我々もあまり影を意識せず、常に明るいところばかり追い求めている気がする。確かに「影」は必要か問われれば、暑い時の日除け以外、その必要性は思い浮かばない。むしろ「影」には良いイメージはない。しかし、影は実に正直で、真実をはっきり映し出す。先ほどの作品を凄いと思ったのは、影が、哲学者の知性、冷静さを際立たせ、「階段」では人物よりも影の方に躍動感を見せ、そして、高松次郎の作品では人物の影の描写だけなのに本物以上の気配を感じさせてくれる。影がそんな強烈な力を持っていることを知らせてくれた。光と影について、あらためて考えさせられた記事である。

 さて、芸術の世界から離れて、今の社会を観ると、やはり人々は光ばかりを求めている。もっと景気が良くなり、老後や子育ても安心で、快適な環境で過ごせる幸せな生活、明るい事ばかり追い求めている。しかし、影の部分をもっと見つめなくてはいけない。自殺、虐待、失業、不況、これらは社会の影と言っていい。これはある意味で、日本の社会の実態を正確に映し出しているものだ。また、これらの影も何かに光を当てた時にできる産物であることを十分認識しなければならない。つまり、光なくして影はできるものではない。

 いま、政治の世界はこれらの影を無くすために、暗いところばかりを注視して対策を考えているように思える。実は、問題なのは影でなく、光の当て方、あるいは光を当てる対象物ではないだろうか。光はすべてが正しく、良いものとは限らない。自由、権利、民主主義、お金、これらは一見、まぶしい光に見えるかもしれない。しかし、実際はその扱い方で影は歪(いびつ)な形で、そして妙な強さで、且つたくさん出来てしまう可能性もある。個人の自由や権利ばかりを最優先する世界では他人への思いやりや配慮、あるいは協調がなくなり、不公平感や誰かが犠牲になる社会になってしまう。子供の虐待問題も、親が自分に光を浴びたいと思うあまり、子供達に影を強いている典型ではないだろうか。

 世の中に目を向けると、いま中国は破竹の勢いで急成長している。そのエネルギーは凄まじいものであるが、恐らくそれと同じ量の影がつくられている現実も直視しなければならないだろう。先ほどの作品ではないが、明るさ以上に影の持つ力は強い。影を軽んじる政策が続けば、結局不幸が広がるだけだ。日本も、高度経済成長、バブル経済を経て、社会の構造は大きく変化し、光と影のコンストラストも強くなり過ぎた。特に景気の良い時に見過ごされた影の部分は、この数年の不況の中で、さらに強調された感じである。

 その影をどう消していくか、日本の政治の光に対する考え方にかかっている。国民受けのいい政策ばかりでなく、地味な光でよいから、社会の影の部分を薄くし、きれいな影にしていくことが重要である。菅政権もこれからが本当のスタートである。政治の光と影、うまくコントロールし、調和のある社会を作ってもらいたいものである。
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