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おいしさと化学調味料による危うさ [医療・厚生・食品]

 最近、お手頃価格のレトルトやお菓子でも、やたら美味しく感じることがある。そうした商品はパッケージのデザインも良く、値段以上のグレード感やお得な気持ちになる「何か?」が仕込まれている。
これらの商品は人気も高く、売れゆきもいい。美味しいことを否定するつもりはないが、どうも食の安全が気になってならない。特に成分表示には、必ず添加物や甘味料の表示や見慣れないカタカナ成分が観られる。私のような消費者にとって、それが安全かどうか判断することは到底できない。
 以前、食品展示会でグルテンフリーのお菓子を試食した時のことである。驚いたことに、米粉で作ったクッキーの味が、一般の小麦で作ったものとほとんど変わらず、しかも歯ごたえさえも一緒であった。それが売りのクッキーなのだ。
 本来ならば全然違う商品なはずであるが、まったく同じ。すごく違和感を感じたことを覚えている。いくら企業秘密と言えども米粉や自然素材だけで、そうしたことができるはずがなく、おそらく特殊な添加物や甘味料で味や触感を変えている以外考えられない。残念であるが食品分野は、調理の力ではなく、化学の力でどうにでもできる時代になってきたような気がする。
 問題は、これらの物質が人体にとって悪い影響を及ぼさないかどうかだ。当然、基準としては安全なものなのだろうが、本当に安全なのかと疑いをかけてしまう。
 
 日本の食品は、世界のどの国と比べても安全であるという妙な先入観がある。それは衛生的な工場とまじめな作業員が作っているだけで、本質的な商品の中身自体はちょっと怪しい感じがしてならない。
 消費者の美味しさの求めに、企業の利潤追求主義だけが行き過ぎないとよいのだが。

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いまのアメリカはかつての憧れた国とは別物だ。 [社会・生活]

かつて、アメリカは世界中の若者にとって、「憧れの国」であった。
いまでも、世界一の経済大国であり、偉大な国であることには変わりない。
 
でも、いまから50年前に観たアメリカとはだいぶ違う。
あの頃は、音楽や映画、ファッションからアート、すべてが先進的でクリエイティブに満ちて刺激的であった。
 
音楽の世界では、ボブディランやピーター・ポール・マリーなど、反戦や平和をテーマにしたメッセージソング、
ビーチ・ボーイズのように陽気で明るいカルフォルニアドリームソング、
エルビス・プレスリーのやんちゃでかっこいいアメリカンボーイのロックソング、
そして、ビートルズやローリング・ストーズはイギリス出身であるが、アメリカンドリームを実現した先駆的ミュージシャンだ。数えればキリがないくらいのアーティストや音楽が、輝かしく煌めいてくる。
 
映画では、アカデミー賞のオスカー作品はもちろんのこと、娯楽レベルの映画でも大作ぞろい。レッドカーペットを歩くハリウッドスターは常に羨望の的であった。また、この頃の映画は文学的な名作も多く、愉しませるだけでなく、「人生とは何か」と心を深く揺さぶる作品もあり、アメリカ映画の奥深さに痛感させられていた。
 
しかし、現在のアメリカ映画と言えばどうだろう。
CGを使った迫力あるアクション物ばかりが目立ち、画面のすごさは伝わるもののフィクション性が強く、つくりもの(疑似性)の感覚を受けてしまう。ある意味で、安っぽい娯楽中心の映画に陥った感じがする。
これがいまのアメリカを映し出しているのかもしれないが、その中に現れる文化や精神、日常の生活など、憧れる要素はほとんどない。むしろ、暴力や現代の病んだ人々をテーマを扱ったものが多いせいか、アメリカンドリームから遠く離れた世界感しか広がらない。音楽の世界も似たような感じて、ほとんど興味もわいてこなく、最近どのような曲がヒットしているか知らない。
 
いま、アメリカはどうなっているのか。
経済的な内訳を見れば、富の上位10%の世帯が国の富の72%を保有し、下位50%が国全体の2%しかもたないという、とんでもない格差社会の実態がある。
つまり、アメリカ人の大半は貧乏人の域に入っていると言っても過言ではない。そんな社会を持つ国が夢のある、憧れの国になろうか。また、若者たちにとって夢や希望の持てる国なのだろうか。
 
自由と民主主義を旗印にしていた国であったが、気がつけば「資本主義」という魔物にすっかり国や民衆が食い物にされてしまった感じがする。「アメリカンドリーム」も精神的な希望や喜びの達成よりも、金儲けの成功が尊ばれた結果にあるのではないか。この国の指標はすべて貨幣価値で置き換えられ、人々の心にも貨幣がちらつき、社会全体がその魔力に犯されているようだ。
 
日本ではいまだにアメリカを目標、目安にする知識人やメディアが多いが、気をつけないと同じような病にかかってしまうおそれがある。いや、同じ格差社会がじわじわ進行しているあたりは、すでに症状がでていると言っていい。
 
まだ、手遅れでないと思うが、我々は強く自覚する時期が来ている。
もう、かつてのアメリカは幻想であり、我々が憧れ、目指す国でないことを。
あまりにも変わりすぎたアメリカに、ちょっと寂しい感じがするこの頃である。

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スローフード文化の時代 [文化・歴史・芸術]

 スローフード。その土地の伝統的な食文化、食材を見直す運動で、1986年イタリアのカルロ・ペトリーニさんによって提唱されたという。

いま日本はまさにスローフードブーム。和食や地酒、地元の特産品を活かした郷土料理、B級グルメ などなど。日本の食文化、食材のレパートリーは世界に類を見ない豊富さがある。また、伝統的なものばかりでない。新しい発想のものも次々あらわれる。日本人のお家芸である和洋折衷、世界中からいろいろなものを取り寄せ、アレンジし、自分たちの好みにあったものに仕上げる才能は古来からいまも健在である。

 そうした文化が、いま外国人に注目され、日本への観光人気につながっている。

 これまで当たり前と思っていた日本文化、特に食文化はおそらくダントツ世界ナンバーワンではなかろうか。経済は中国に抜かれ世界第3位、さらに数年後にはインドにも抜かれると予想されているが、この食文化は、質と深さの面で100年かけても覆されることはないだろう。

 日本の食文化は人々の食に対する思いだけで築き上げられたものではない。四季折々の気候、周囲は海に囲まれ豊富な魚介類や山間部から湧き出る良質な水、農作物が育つ土地など、世界中でも稀にみる自然環境に恵まれたからこそ、おいしい食材を得ることができたのだ。その幸のおかげといっても良い。

 しかし、20世紀以降、日本のそうした豊かな自然も経済効率から徐々に破壊されつつあり、かつてほどの恩恵も危うくなりつつある。

 スローフードは、食文化を中心に、環境を見直す良いきっかけである。やはり、食卓が文化の中心にあり、人が集い、街や産業が栄えていく構図が、もっとも居心地のよい社会である。ギスギスしたストレス社会とはちがった生活が見えてきそうだ。スローフード文化こそ、いま日本が最も目指す道に思える。 


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箱根芦ノ湖の海賊船、富士山と絶妙な景色

久々の箱根観光、芦ノ湖周遊の旅を愉しむ。
まず、小田急線で小田原まで行き、そこから箱根登山線に乗り換えて箱根湯本、そして強羅まで登山電車で3回ほどスイッチバック(前後進行方向を変えながらジグザグと運転する)しながら登り、そして早雲山山頂までケーブルカーで上がると、今度は18人乗りのゴンドラ型ロープウェイに乗り替え、いよいよ一気に山越え、途中に硫黄のにおいがきつい、黒たまごで有名な大涌谷を通過して、最終地点の芦ノ湖湖畔にある桃源台駅に到着。
箱根の山越えは、いまも相変わらず大変である。
 
この日は平日であったが、駅を降りると観光客でいっぱい。ここでも外国人観光客の多さに圧倒され、ここは日本?と思えるほど不思議な光景だ。
ここからは、芦ノ湖周遊の旅で、おなじみの遊覧船である「海賊船」に乗り込んだ。
久々にそばで観ると、実に立派である。
乗船したロワイヤルⅡ号は大航海時代のフランス戦艦をモデルにしたものらしいが、ディズニーの映画に出てくるようファンタスティックな外観と、船室内の西洋風でありながらも、箱根の伝統工芸がちりばめられたおしゃれな空間が、またなんとも言えない味わいを創出させてくれる。
また、船上はぐるりと景色が観れるようにデッキ状にできており、そこには外人さんたちが溢れかえっていた。 
 
しかし、箱根に「海賊船」。
よくよく考えると不思議な組み合わせだ。
箱根と言えば、東海道五十三次の宿場町であり、江戸の名残のある場所。
遊び心といえ、あの日本的な情緒、文化、歴史に関係なく、まったく西洋の派手な「海賊船」。
本来ならば景観を損ないそうであるが、これまた妙に合っているから不思議。
特に、晴れた日の湖畔から眺める富士山と湖に立つ箱根神社の鳥居、それを背景に悠々と運航する海賊船、
奇跡と言っていいほど、絶妙なコラボレーションである。
今回、その絶景をシャッターに収めたので、ここに記す。
 
DSC_0121 - コピー.jpg

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ゴミ拾いイベント。観光地をきれいな環境に!

先日、海が観たくなり、妻と一緒に湘南の江ノ島に行った。
青空に、それを映すキラキラと青い海、雲はほとんどなく、初夏の陽射しと海風がとても心地よい。
海岸には休日を楽しむ親子が多く、子供たちが歓声を上げながら、潮の満ちにバシャバシャと走りながらはしゃいでいる。テントやシートを準備して、くつろいでいる人たちもおり、いよいよ夏の海の始まりである。
 
そんな中、ちょっと気になるのが砂浜にあるゴミ。
河口の傍であるので、漂流してきた木くずも多いが、やはり空き缶やガラス片、プラスチックゴミも目につく。
全体的にはそれほどゴミだらけというわけではないが、できればきれいな砂浜であってほしい。
 
でも、このゴミは誰が拾うのか?
  
ネットで調べたら、この江ノ島海岸では、NPO法人海さくらと大正製薬が海の環境を守る活動として、7年前から「ファイト一パーツゴミ拾い」というイベントを開催しているようだ。今年は5月18日(土)10:00-11:45の間、浜辺に一列に並んでザルやトングを使い、徹底的にゴミを収集するそうである。参加者には全員にリボビタンDをプレゼントということで参加者を募っている。なかなか良いアイデアだ。時間の都合が付けば、私も参加してみたい。
 
いま、観光地でゴミ問題は深刻である。マナーを守らない観光客を取り締まるのは難しい。いくら張り紙で注意を促しても、やはりゴミをポイ捨する人がいる。ならば、こうしたゴミ拾いイベントを自治体や観光協会、NPO等が中心となり定期的に行ってみてはどうか。また、ボランティアだけでなく、観光旅行者もゴミ拾いに参加してもらうのも一つの方法だ。外国人観光客もそうした整備活動に参加貢献するのも、まんざら悪い気はせず、むしろ旅の良い思い出になるのではないか。
  
とにかく、みんながきれいな環境で過ごせるように、みんなで協力することが大事だ。
 

タグ:ゴミ拾い
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若者が使う「やばい」という言葉、どうも気になる。

最近、若者がやたらに「やばい」という言葉を発する。
例えば、おいしいものを食べたとき、「これ激やばー」とか、
コンサートで涙が出るほど感激したとき「ほんと、やばい!!」
仕事で出来過ぎるほどうまくいった時、「まじで、やばくないっすかー!」とか。
いずれも、「最高!!」とか、「すごくいい!!」とびっくりマークが2つ付くくらいの良い意味に使われている。でも、本来の意味は、それと逆なのではないか。
「これはやばいよ!」と言ったら、「これはまずいよ。危険だよ。」という否定的な意味を表すのが一般的でマイナスのイメージが強い。しかし、若者は違う。むしろポジティブな感覚に使っている。
 
これは正しい使い方なのか。辞書で「やばい」を調べてみると、「身に危険が迫るさま。あぶない」とあり、自分が思っている意味そのものであった。そうなると、若者が使う「やばい」はいつからなのか。最近の傾向なのか。そして、どのように誕生したのだろうか。
 
おそらく、推測であるが、発信元はアニメで、そこからSNSを通じて若者の間で拡散し、いまや元のネガティブな意味を凌ぐほど、「最高、感激」といったポジティブな意味のことばとして認知されるようになったのではないか。
 
でも、よくよく考えると、単に反対語ではなく「気持ちが危険なくらい最高で、感激!」という否定と肯定を混在した意味で、より感性を豊かでアクティブに使っているようにも思える。決して的外れな悪い使い方ではないように思える。この「やばい」を一方的に若者ことばで「けしからん」と敬遠せず、年配者もその意味で使ってみるのもいい。言葉にはその時代を反映させる精神性のようなものが乗ってくるものだ。生きた言葉は、化石のように固定したものではなく、さまざまな人たちの会話の中で新陳代謝を繰り返し、新しい息吹が吹き込まれ、少しづつ変化していくものだ。言葉はつねに新鮮さを求めている。
  
そして、その「ことば」が本物であるか、それには試練がある。
十数年後の歳月を経ても、人々の中で依然と残っているか。ただ一時の流行であればその意味は抹殺される。はたしてどうか。
 
10年後、「やばい」の姿を、もう一度検証してみよう。 

タグ:やばい
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インバウンドで世界中に日本ファンが広まる。

毎日のニュースで必ず日本で楽しむ外国人観光客の光景が映し出される。
円安も後押しして、観光各地では大盛況である。
人種もアジア圏はもとより、ヨーロッパ、アメリカから豪州、ブラジルなどの南アメリカ、またアラブやインドネシアなどイスラム圏の人たちも目立ち始めている。特に京都の清水寺や八坂神社、祇園界隈などは、全世界あらゆる人種が集まり、パリやロンドン、ニューヨークなどに劣らない国際観光都市と言えよう。そうなると言葉も多様化、日本でおなじみの英語、中国語、韓国語の案内だけでカバーできるのだろうか。
 
 つい先日、京都に行ったが、そんな心配はご無用のようだ。お店の人たちは日本語で普通に対応しており、外国人の方が、片言の日本語で手振り身振りを交えながら話していた。逆のイメージがあったが、やはり観光客はその土地の流儀に合わせるのが筋だろう。でも、考えてみれば、はるばる異国情緒に触れようと観光に来ているのだから、流ちょうな英語で話されたら、「よかった」と安心するよりも、幻滅感を感じる方が大きいのではないか。たとえ会話がスムーズにいかなくても、日本語でのふれ合いの方が旅に味わいのある思い出をつくってくれるはずだ。
 
 そんな旅する外国人観光客に、インタビューで日本に来る動機や来てからの印象を尋ねると、若い人たちの多くは、「アニメで日本を知り興味を持った」、年配者は「日本の歴史や文化に興味があり、とにかく来てみたかったと言っている。」、特にうまいものを食べたいというのはすべての人たちの共通アイテムだ。また、実際に日本の各地を巡り、自国の文化や社会と比較して、「街がきれい、ごみが散らかっていない。交通機関がスムーズ。店のおもてなしサービスが素晴らしい。」など、心からほめる言葉が多く、日本人にとって誇らしい気分になる。
 
また、その共通アイテムである「食べもの」では、寿司、てんぷら、ラーメン、うな丼などの典型的な日本食から、カレーや餃子、お好み焼、たこ焼き、草餅、団子などジャンル問わず満喫している。、居酒屋や屋台で焼き鳥と日本酒のちょい飲みなど、日本のおやじたちの愉しみまでが観光の目玉になっているから驚きである。
それからもう一つ、日本のフランス料理、イタリア料理、そしてスイーツも、本場のものと比べていただきたい。これらも、本場の食の精神を尊重しつつも、日本特有の手の入れ方で、同じようで異なる世界を作り出していると想像する。こちらも是非堪能してみる価値がある。きっとサプライズするだろう。
 
さて、日本はアジアに位置しているが、古くから中国や朝鮮等の大陸の影響を受けつつも、それに飲み込まれず、独自の文化を育んできた。いや、受け入れても、それにただ順応するだけでなく、日本という独特な精神や意識を挿入し、さらに洗練させ、昇華してきた。「おもてなし」、「かわいい」なども他国にはない、めずらしい文化現象だ。グローバルから取り残されて、ダサいガらパゴス化した日本と揶揄していたが、実は世界の人たちを惹きつける魅力的な個性を磨いていたようだ。
 
アニメに日本食、そして日本の景色や文化、そして何よりも「日本の精神」や「人々の心」を世界中の多くの人たちに知ってもらい、日本という国の大ファンになってもらいたい。そして、日本ブランドが親しまれ、世界との絆がより深くなれば、本当の意味での強い友好関係を築くことができよう。
このインバウンド、観光収入による地域の経済活性化の視点から取り上げられ報道ばかりであるが、それよりも、世界中に日本の「和の精神」を広めること、それが最大の外交戦略のような気がする。
もしかして、武力でなく、文化で日本が世界を平和的に制覇できるかもしれない。

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住宅街でドローンを飛ばすな!! [社会・生活]

自宅でくつろいでいると、突然、外から「グオーン」という音が鳴り響いた。
何事かと思い、家の外に出て、その方向を見上げると、ドローンが住宅の屋根より高い位置にUFOのように浮上飛行しているではないか。ミニのドローンであるけど、音はかなりうるさい。
観ていると、電線の間をくぐり抜けながら、およそ30mくらいの高さまで上がっただろうか。
4,5分間程度、その位置で浮遊飛行し、そのまま下方へ着陸していった。
公園などの広場ならまだしも、こんな家が密集している住宅街でドローンに出会うとは驚きよりも、不気味さを感じる。もしも、カメラ搭載ならば住宅内の盗撮もできる。これは遊びでは済まされず、十分に犯罪の領域である。
操縦していたのは20代くらいの2人の若者で、多少は周囲に配慮しているようにも見えた。
おそらく、遊び感覚でドローンの性能を試していたのだろう。
 
ドローンについての法規制を調べてみると、100g以上のドローンは無人航空機として扱われ、航空法の適用対象になるが、100g未満のものは「模型航空機」に分類されため、対象外のようだ。この無人航空法では人口集中地区の上空、いわゆる住宅街などの上の飛行は禁止されているが、模型航空機の場合、この適用から外れるようだ。警察庁が所管する法律で、小型無人機等飛行禁止法という規制があるが、これは国会議事堂、内閣総理官邸の国の重要施設やや原子力事業所の周辺など、かなり限定されたもので、あまり一般的なものではない。
この手のドローンは民法で他人の所有地の上空に侵入してはいけない程度が適用される程度で、まだ法規制やルール等が整っていないのが現状のようだ。
 
しかし、年々ドローンの有効活用が叫ばれている。近い将来には鳥や虫と同じようにブンブン飛び回っているような光景を想像するとぞっとしてくる。我々にとって良い面をもたらす事もあるかもしれないが、まず、うっとっく、目障り、そして色々悪用にも使えそうな秀逸なマシーンである。ウクライナ戦争でもドローンが殺人兵器として使われているのも忘れてはならない。
 
未来のことはさておき、とにかく住宅内で無用にドローンを飛ばすのは、迷惑行為として絶対やめてもらいたいし、厳重に罰してもらいたい。でなければ、いまにもドローンによる迷惑や不快な行為が拡散していき、大きな社会問題に発展しそうな気がしてならない。

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