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誰もいない歩道内で、警官の自転車走行の取締り、厳し過ぎないか。 [社会・生活]

つい先日の出来事、いつもの通勤道の歩道を自伝者で走っていると、突然、道路脇の物陰から警官が現れ、片手でストップの仕草。何事かと驚いて自転車から降りると、その警官が近づき、「いまお急ぎですか」とややまわりくどい口調で話しかけられてきた。
どうやら、歩道内の自転車運転禁止の取り締まりに引っかかってしまったようだ。
 
たしかに最近では、歩道を勢いよく飛ばして走る自転車をよく見かける。なかには電動式でバイク並みのものや、スポーツタイプで猛スピードがでるものなどあり、ぶつかれば大惨事につながる可能性もあり、それはいつも懸念しているところだ。
 
しかし、私の自転車の場合はこれとは違う。きわめて平凡なママチャリで自漕ぎタイプ。声をかけられたときには周囲に人はいなく、特にスピードを出しているわけでもなかった。自分では全く危険行為はしていないと思ったが、警察にはどうも抵抗しずらい。結局、身分証明書をみせて、とおり一片の注意と警告書のような紙切れを渡された。車ならば完全に交通違反で罰金の雰囲気だ。
今日は運が悪いと自分を慰めるものの、どうもしっくりしない。
 
歩道内を自転車で走ることは交通ルール上、違反であるが、あきらかに事故の危険を起こすような走りをしていない人に、そこまで改たまった取り締まりをする必要があるのか。取り締まりが終わり、自転車をひきながら歩道をしばらく歩るき、少し悔やみながら振り返えると、同じ場所でさっそく若い女性がつかまっているではないか。同じような尋問を受けているようだ。彼女も普通のママチャリで、どちらかと言えばおとなしそうタイプ。事故を起こすような雰囲気はまったく感じられない。警察も注意しやすい人を狙っているのかと、つい疑ってしまう。
 
でも警察は状況をもう少し考えてほしい。なぜ、この道の歩道を自転車が走るか。この道路は車が多く、車道も自転車が安全に走れるほど広いわけではない。それに比べて歩道は幾分広く、自分の身を守るならば歩道を走る。大型車など多く、車道を自転車で走るのは結構勇気がいるものだ。
 
自転車の位置づけは難しいが、車(タイヤ)がついていると言っても、車ではなく、どちらかと言えば歩行者に類するものだ。警察の2者択一的なルール指導は果たして人にとって安全、安心なものなのか。原則ルールはそれでよいと思うが、すべてを四角四面とせず、その場に応じた柔軟な規則対応をしてもらってもいいのではないか。ただ無謀な運転で自転車を凶器にするひとがいるから、こうした安全側のルールを、一律に遵守せざるを得ないのもわかなないでもない。一部の人の危険行為の阻止を優先するために全体の安全システムをゆがめているような感じもする。
こういう問題、何が正しく、何が間違っているのか、なにか矛盾に満ちている。自問自答に陥るが、日常生活において、モヤモヤすることが多い。 

タグ:自転車 歩道
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アナログ世代は寂しくなる時代だ。 [社会・生活]

昭和生まれ、昭和育ちの自分にとって、ちょっと寂しいことがある。
最近、街から本屋やCDショップ(レコード店)が姿を消していることだ。
自分にとって本屋は昔から欠かせない存在であった。最近は小説や新書など読むことも多く、本屋でぶらぶら本探しするのも楽しみの1つになっている。
  
子供の頃は漫画の本を買いたくても、お金がなくていつも古本屋で漫画雑誌を買っていた。当時(昭和40年代)は新刊の少年マガジンは60円、それが古本屋だと1週遅れで20~30円、1か月遅れだと10円で手に入った。自慢ではないが私の書棚は10円で買った漫画本でいっぱいに埋めつかされていた。そんな子供相手に商売をしている小さな古本屋や本屋が必ずどこの街にもあった。
 
それから、レコード屋。中学に入ると、ビートルズをはじめとしたロック調の洋楽や当時若者に人気のフォークソングに傾聴しはじめ、吉田拓郎や井上陽水などの新曲が発売されると必ず新しいジャケットを探しにレコード屋に行き、最新の流行に触れる満足感に浸っていた。いまはジャズ系の音楽が好きで、よくCDショップに立ち寄る。昔のLP盤のジャケットとは違うが、それでもCDジャケットの絵柄を観ているだけでも楽しい。
 
昭和から平成に入り、本屋はブックセンターに、レコード屋はCDショップへと姿を変えきたが、令和になるとそのブックセンターやCDショップも1店舗、また1店舗と消えている。いま自分の街では本屋がショッピングセンター内に1店舗あるだけで、かつての通った書店みな消えていった。いまやスマホで観るか、アマゾンで注文するか、時代はすっかり変わってしまった。
 
最近、わが家もアナログからデジタルに切り替えたものがある。社会人になってから40年取り続けていた新聞を先月止めてしまった。ニュース程度ならばスマホで十分知ることができる。そう思って止めたのだが、新聞の違った価値観に気づいてしまった。
 
それは茶碗をわってしまった時である。いままではすぐに新聞紙に包み、ごみとして捨てたのだが、その新聞紙がないのである。見回しても、茶碗を包めるようなものがなく、結局ビニール袋に入れたのだが、どうもしっくりいかない。また、玄関で花瓶の水をこぼした時、新聞紙があればすぐに吸い取ることができたのだが、ちょうど良いものがない。新聞というのは時事の情報を知るだけでなく、生活面で非常に役に立っていたことを痛切に感じた。
 
昭和や平成の始めの頃は、非効率で無駄の多い時代であったが、無駄のない効率的な時代になると、どうも味気無さが響いてきて、物足りなさを感じる。せめて、本屋とCDショップくらいは令和の時代にも生き残ってもらいたいものだ。

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ウクライナ、ロシア戦争はもはや意地の張り合いのようだ。 [外交・防衛・海外]

ウクライナの戦争はどうやら長期化が避けられなさそうにないようだ。これはロシア、ウクライナのどちらにも利がないことは明白である。ロシアには大国のメンツがあり、ウクライナに屈することはあり得ない。
また、ウクライナは民主主義国家群の砦として、西側諸国から大きな支援を受けているから決して弱小とは言えない。
 
当初は相撲で言えば横綱と十両レベルの戦いに観えたが、実際は横綱と前頭。戦争が長引くとロシアは消耗弱体化して、ウクライナは西側の軍事援助を受けて、大関と小結のレベルでの競り合いになってきている。
さらに西側の最新兵器を手にすればウクライナは関脇レベルになり、ロシアを相当苦しめることだろう。
しかし、そんなに張り合い、得るものは何か。大地は荒れ果て、人々の生命が脅かされている。ロシアとて多くの兵士の命が失われている。
 
ウクライナ人もロシア人もそこに住む人たちにとって、食べて生活ができれば、国の旗の色など、本当はさほど気にならないのではなかろうか。ロシアもウクライナも歴史上いろいろあったが、いまでは国家的、民族的には類似して共通点の多い国である。ウクライナの戦闘地域になっている場所も、どちらかと言えば親ロシア派の人が多く住む地域であり、ここがなぜロシアの爆撃にあうのか疑問である。
 
そういった意味でも、今回の戦争は非常に歪んでいる。プーチン大統領とゼレンスキー大統領の張り合いが混沌とした戦争を作り出している。とにかく、戦争はやってはならない。日本も戦争ができる国を目指す声が大きくなりつつあり、少しづつ軍事力強化が進んでいる。世界情勢がそうした方向にあるから、仕方ないのか、しかしながら、危険な方向に進んでいるのは間違いない。日本も戦争体験者は稀少になり、その悲惨さを切実に訴える人はもう殆どいない。この戦争を映画やゲームのように解説している軍事専門家の言葉は極めて覚めており、何か勘違いしそうになる。
 
平和が当たり前と思っているのは大きな間違いで、それを維持することが大変であることを自覚しなければいけない。いまの日本人に一番足りないところだ。先人たちの験や訴えを風化させないように、この終戦の日、我々はあらためて、平和の重みと戦争への警戒を肝に命じることが大事だ。

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コロナ感染問題、日本の科学者たちは真剣に考えているか。 [医療・厚生・食品]

コロナ感染が収まらない。
これまで身近で感染する人はほとんどいなかったが、この第7波はどうもちがう。自分の友人、会社の同僚など、
すでに4~5人の人が発熱で自宅療養、あるいは病院に入院している。彼らはコロナ感染したくないといって2回以上はワクチン接種している。また、派手に飲みに行ったりするような人たちでもない。第6波まで、こんなことはなかった。とても奇妙である。
  
今年の冬に、ヨーロッパ連合(EU)医薬品規制庁が、新型コロナウイルスのブースター接種を頻繁に繰り返すと免疫反に悪影響を及ぼし、最終的には自然免疫が低下すると警告したのを記憶している。いまの日本は、まさにその状況に当てはまるように思える。
 
しかし、日本の政府や医療機関、マスコミから発する言葉は違っていて、ワクチン接種すれば重症化を低減できるので、できるかぎり4回目のワクチン接種するよう呼び掛けている。多くの人たちは副反応が怖いと言いながらも、その言葉を信じて4回目接種を行っている。そして相変わらずマスク着用を徹底している。
 
ところが、海外はというと、日本より一桁多い感染者数、死者を出した国々でも、ほとんどマスクを着用せず、ほぼ普通の日常生活に戻している。人々は、少なくとも普通の風邪かインフルエンザという認識で、日本人のようなコロナに対する警戒心はほとんどないように観える。こうなると否が応でも自然免疫は鍛えられ、本当の意味での集団免疫がつくのかもしれない。おそらく、科学的な裏付けあってこうした大胆な政策に転換したのだろう。
 
日本はどうもはっきりせず、いつまでも海外のワクチンに頼った政策が続き、国民の健康と安全があやふやな状況である。政治の問題か、あるいは科学者の問題か、これこそ日本学術会議が先頭に立って、国家の提言をするべきだ。つい先日も、相変わらず6人の会員任命手続き問題を取り上げられて、ゴタゴタしていたが、そろそろチェンジアップして国家のために働いてもらっていいのではなかろうか。
 
この国家的な危機に、日本の最高峰の科学者の頭脳が有効に機能してもらえなければ、この国はどうなるのだろう。政治、経済、そして科学、あらゆる分野で機能不全に陥っているような気がしてならない。非常に危惧するところだ。

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