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彼岸花、仏教の経典ではおめでたい花

公園の池のほとりに、赤い彼岸花がひっそり咲いているのを見つけた。
この花が咲く頃、夏の終わりを告げ、そしていよいよ秋の景色がはじまる。
初秋のお彼岸あたりに花開くので、その名が呼ばれるようだ。
 
higannbana.jpg
 
今日は日中、陽ざしが強かったが、風が吹くと穏やかな心地よい日であった。
あの灼熱の暑さからは解放され、だいぶ体も楽になってきた。
そんな季節の節目に、この花とめぐり合う。
 
しかし、何と言おうか、不思議な雰囲気を醸し出す花である。
すうっと一本の茎から、線香花火の火花が散り広がるように、そして繊細で鮮やかな朱色の花びらが上向きに優しく反り返えり、気品ある香りを放っている。別名、曼珠沙華。天界に咲く花と言われ、おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくるという仏教の経典から来ているそうだ。
 
ありがたい花なのかもしれないが、庭の花壇にはどうも植える気がしない。
お彼岸というお墓参りのイメージと重なり、街中のざわついた場所でなく、人里はなれた静かな場所でひっそり咲いていてほしい。また、それが似合っている。
 
ただ、彼岸花の見事な群生で観光地化されているところもある。それはそれでいい。
でも、この公園で撮った1枚の写真。こんな彼岸花も味わい深くてとてもいい。

タグ:彼岸花
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いまのコロナ対策、問題ないか。 [医療・厚生・食品]

新型コロナウイルス第7波もようやく収束に近づいているようだ。
そんな中、もう次のワクチンの話が進んでいる。
次はオミクロン株対応の2価ワクチン。
5回目はこのワクチンでいくようだ。
 
しかし、本当に大丈夫なのだろうか。
mRNA型ワクチンは人類初経験のものであり、その安全性が確かなものとは言えてないようだ。たとえ、すぐに副作用が出なくても、5年後、10年後どうなるかわからない。そういう意味では、いま壮大な人体実験が行われているといってよい。そして、日本人のほとんどが、そうしたリスクを知ることのないまま、その実験に参加している。
客観的に観れば、まさに、ファイザー、モデルナの実験サンプルとして、体を張って貢献していると言えるのではないか。
 
ただ、不思議に誰も異を唱える人は出てこない。いや聞こえてこないだけなのかもしれないが・・・。今日も新しいワクチンの報道があったが、オミクロンに対して抗体が向上し、非常に効果が期待できると、まるでメーカーの宣伝のようなニュースであった。あまりに情報が一方的で偏っている。
 
どこかおかしい。不自然な気がするのは考えすぎか・・・。

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メタバーズの幕開け、どのような時代が訪れるのか。 [教育・科学・技術]

メタバーズ。
いよいよ、その時代の幕開けなのか。
東京大学でメタバーズ工学部が開校するという。国を挙げて取り組む時が来たようだ。
 
これまでベンチャー企業やゲーム会社などがこの技術を先行して磨いていたが、欧米や中国などの本気度と比べると、その力の入れようは大きく見劣りがする。今後、世界をリードしていくにはこの技術を制することが、もはや必至といえるかもしれない。
  
そんなメタバーズはどのくらいの変革をもたらすのだろうか。この30年インターネットの出現で世の中は大きく変わったが、おそらく、その比ではないだろう。何しろ、現実とは全く違う、仮想の世界に人々を連れて行ってしまうのだ。想像を絶するくらい大きな変革があって当然。いまのところ経済面でのメリット(明るい未来)が叫ばれているが、はたしてどうなのか。
 
いま実験的にいろいろなことが行われ始めている。例えば大学の授業も、アバターで仮想空間の教室に出席して、そこでアバターの教師や友人たちと触れ合う。そこには自分がいるが、「私」でなく、自分である「彼」である。
その彼は、自分の意志で、授業を受けるがやはり偽物の自分だ。そして姿や形はいくらでも化けられる。ここには本当の世界はない。でも、大学の「学びの空間」として真実の世界になるのだ。これを世間を全く知らない若い世代がどっぷり浸るのだから、ちょっと恐ろしくなる。
 
また、いまは特定のメンバーで構成された安全な仮想環境であるが、やがてコンピュータウイルスのような悪質なものが挿入されてくるのも時間の問題。その時に、どのような混乱が起きるか。また、コンピュータの世界なので、自分をいくらでもリセットできる。リセットできる人生は望まれるところもあるが、それがいとも簡単にできと勘違いすれば、現実の世界で取り返しのつかないことが起きることも予想される。そんな大きなデメリットを孕んでいるのがメタバーズではなかろうか。
 
とにかく、同時に現実と仮想の相容れない2つの世界に自分が属するということは、とてつもない混乱が生じるのは必然である。基本的には「人のいのち」という概念がぐらついてくる。つまり血のある現実の「いのち」とデジタルで想像された「いのち」。我々の一番大事にしている「いのち」が、ただの商品のように軽く扱われる危険性が大いにありうる。その時、人間とは何かという大きな問題に突き当たるだろう。
いずれにしても、とんでもない時代がくるような予感がする。

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芸術の秋、東京芸術大学美術館で皇室の至宝の数々が展示。 [文化・歴史・芸術]

秋が近づくと、不思議に芸術が気になってくる。
いま伊藤若冲の代表作「動植綵絵(国宝)」をはじめ、宮内庁所蔵の皇室の至宝が、東京芸術大学大学美術館で展示されている。といっても、気が付けば開催期間のギリギリ。これを逃すと後悔すると思い、昨日、思い切り観に行った。
 
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題目は「日本美術をひも解く」、奈良時代から昭和にかけて、書や和歌、人物、物語、花鳥、動物、風景などをテーマ別に、芸大らしく日本美術の変遷をわかりやすく紹介した展覧会である。
 
上野には、国立美術館や平成館、東京都美術館など、何度も訪れているが、東京芸術大学美術館は初めて。それも興味津々、愉しみでもあった。芸大の門を入るとすぐわきにその建物がある。周囲の古いレンガ造りの大学校舎と対照的に、キューブ状のコンクリートとガラスのモダンなつくりで最近の建物だ。展示スペースも鑑賞しやすくコンパクトにまとまっている。私のようなシニアには大きな美術館よりも、このサイズがちょうどいい。
 
出品物には国宝やその水準(絶品級)のものが展示されており、一品一品じっくり観ていても飽きが来ない。とにかく、どれをとってもすばらしいものばかり。
また、歴史の教科書に必ず出てくる「蒙古襲来絵詞(国宝)」や美術の教科書に載っている「鮭(高橋由一:明治10年)」など、実物をまじかにすると、「ああ、これがあの時の・・・!」と学生時代の懐かしい記憶が甦り、ひときわ感動が込み上げてくる。こういう作品との出会いも美術館の愉しみのひとつだ。
 
今回の展示を振り返ると約千年の月日の流れの中、日本の美には一貫した精神のようなものが流れているような気がする。奈良時代の絵巻と江戸時代の花鳥から、近代の芸大出身の作家の作品など、やはりどこか深いところで共通している。それはなんであろか。西洋ではキリスト教をはじめとする宗教的な色合いが強いが、日本ではおそらく自然(四季、植物、動物、それらを包み込む風景)への畏敬と崇敬の念が根底にあるように思える。
 
若冲の絵の中には、植物が朽ちているところも忠実に、またきれいなものばかりでなく、毛虫や蛾など人が嫌うような虫も、その自然の中で重要な一員として描かれ、それが決して気色が悪い絵にはなっていない。むしろ、これが本当の自然だと諭すように描いている。また、それを美しい絵に仕立てているところが若冲の凄さであろう。
 
美術鑑賞は、観方によって面白さが倍増する。芸大とあって、美術史や技巧などに焦点を当てられていた感じがするが、もう一歩、踏み込んでほしいこともあった。
例えば、絵巻物など、歴史的な記述や美術的な解説はされていたが、その絵巻物のドラマ性がいまひとつ伝わってこない。国宝「春日権現記絵」では、館(やかた)の前には牛車が止まっており、幾人もの人が何やら話をしている。さらに館の中にも身分の高い公家人や使用人らしき人も大勢描かれており、それぞれが表情豊かに何かを話している。歴史的な価値を感じながら人物描画を観るのも愉しいが、そこに描かれている人々が何をしているのか、その時代に生きる彼らの生活や生き様の一端でも覗えれば、この蒔絵の魅力はグッと違ってくる。そんな解説がほしかった。
 
また書の三蹟である小野道風の「屏風土台」があったが、これも字ずらが素晴らしいのだろうが、どんな文章がかかれているのか、翻訳的な説明があったら、東風の人物像がよりはっきり見えてくる。
 
ただ、そんな細かく解説したら、観る人が動かなくなり、鑑賞に支障をきたすから、そこまでしていないのかもしれない。まあ、細かいことは家に帰って調べてみよう。
 
しかしながら、久々に芸術に浸り、充実した一日を堪能することができた。

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もはやスマホは脳の補助機能か。 [教育・科学・技術]

先日、出張帰りの特急で異様な光景を目の当たりにした。
いや、これはもはや当たり前なのだろうが、私の目には異様に映った。
それは車両の後部座席側にあるトイレから自分の席に戻るまで観た車内の状況である。
車内は日暮れ過ぎでやや薄暗く、特に話し声も聞こえず、ただ線路を走る音だけが響いていた。
そんな中、座席の間の通路を歩いていると、どの座席からも妙にコントラストが強く、鮮やかに発光するスマホ画面がチラチラ観える。それぞれ何を観ているがわからないが、その小さな画面で赤や黄色、青などの光が忙しく動いていて、とても不思議な感覚になる。
 
見方によれば、ひとりひとりがスマホを手にしている何気ない日常の姿かもしれない。おそらく、みんな普段と変わりないしぐさで、特別なものなどないであろう。しかし、この異様さは、そんな日常に対して疑問を感じさせる光景であり、ややゾッとする感触すらあった。とにかく、みんながスマホに支配されているように観えたからだ。
 
いま、人々の生活がスマホ中心主義ともいえる時代に移行している。そもそも、「人と話す電話」から始まった携帯電話、スマートフォンであるが、コンピュータや通信機能を獲得することで、ビジネスやショッピング、遊びだけでなく、お金の入出金決済や公的な手続きなど、すべての生活インフラの窓口がスマホに置き換えられつつある。それゆえに、計り知れないほどの必需品であることは間違いない。
 
もう何年くらい前になるか、スマホが一般の人たちに普及し始めてから「スマホ中毒」という言葉が世間に登場し、スマホ画面を見続けると目に良くなく、あるいは精神的にストレスにもつながれると危惧され、社会問題としても大きく取り上げられた。現在はそれをはるかに通り越し、もはや脳の補助機能のような必要不可欠な存在といえよう。中毒というよりも、依存しなくては生きていかれないという社会システムが構築されてしまっている。むしろ、そうした社会のしくみや構造そのものが、この問題を大きく変換させ、私たちの生活や生き方を誘導している。
 
もうスマホなしでは生活はままならず、生きていく上でなくてはならないもののようだ。まだ、スマホがない時代を知っている世代は、このスマホ中心主義に違和感を感じるかもしれないが、生まれた時からスマホ漬けになっている世代は、この人口頭脳なしでは生活だけでなく、人生そのものも考えられないのではなかろうか。
 
人間の脳はそもそも不合理的で物事を悩みながら複雑に考え、お互いその複雑さを尊重、協調しながら、人間関係や社会を構築している。この無機質で合理的、効率性を追求している便利なツールであるスマホ(人工頭脳)は、今後の人々の生活や社会にどのような影響を及ぼしていくか。不合理なものや弱いものを排除して、合理的で効率のよい、できる者だけが優遇される社会はご遠慮願いたい。しかし、時代は明らかにそちらの方向を目指しており、それが人々にとって幸せなのだと啓蒙しているようにさえ思える。
 
人間臭さ、泥臭さ、人の情けなど、時には厄介といえるが、それらが排除されない社会、時代が続いてほしい。自然の世界に生きる人間には、これらがやはり大切なもので、決して失ってはならないものである。
スマホはただの便利なツール(道具)か、それとも人間の機能の一部か、あらためてスマホと人間の関係性をもっと真剣に考える時期に来ているのではないだろうか。もう、かつてのSF世界に突入しているように思う。

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