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湘南海岸、海がキラキラ。 [旅行・散策]

ここは湘南海岸。
この日は穏やかな秋晴れの海。
 
じっと眺めていると波のゆらぎで光の粒が星のようにキラキラ瞬いでいる。
自然が織りなす絶妙な演出は、言葉にしがたい神秘さを感じる。
きっと、幾多の画家や写真家たちが、この自然のきらめきを作品にしようと試みたに違いない。
けれど、納得できる作品を残した人はいるだろうか。
考えてみれば、モネの睡蓮も水面の光の輝きをとらえようと何枚も同じような絵を描いている。彼も、感動を伝えようと、あらゆる方法で表現しようとチャレンジしたのではないか。そんなことをふと思う。
 
私もスマホでカシャリ。
写真には波の輝きはをとらえているが、どうも、ごく平凡な風景にしか見えず、感動は伝わらない。
でも、自分では不思議にあの時の輝きが甦ってくる。
おそらく、記憶のフィルターで観ているから、そう映るのだ。
観る人がどのような想像力や記憶のフィルターを持つかによって、1枚の写真も観え方違ってくるのだろう。
 
まあ、それでいい。
 
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タグ:湘南海岸
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リンゴのそばに花を飾ると枯れやすい

「リンゴの近くに花を飾ると枯れやすい。」
たまたま、そんな話を耳にした。
 
その時は、あまり気にとめることはなかった。
それから数日後、「この頃、仏壇の花がすぐダメになっちゃうのよ。」という妻の言葉を聞いて、はて、どこかで聞い話と思いつつ、仏壇に目を向けると、お供え用の真っ赤なリンゴが置いてあった。まさに”リンゴの近くに花”であった。
 
その花はカーネーション?のような種類で、まだ飾って3日目という。観ると花の首元あたりからへこたれて元気がない。やはり、”リンゴの魔力”か。
しかし、最近は寒暖の差も激しく、そうしたこともダメージを与える要因の1つのようにも思える。でも、そばにあるリンゴがどうしても気になる。
 
ところで、リンゴがなぜ悪者になるのか調べてみると、どうやらリンゴから放出されるエチレンガスにあるようだ。エチレンガスは「成熟ホルモン」「老化ホルモン」とも呼ばれるそうで、周辺にある植物や果物を熟成させたり、傷めたりするそうだ。
 
そんな話を妻にすると、リンゴとバナナや他の果物を一緒に保管すると早く熟成するという話をしてくれた。また、この時期、ジャガイモの保管は難しく、すぐ芽が出てダメになってしまうが、リンゴを一緒に入れれば、それが止まると言うのだ。これは一般常識らしい・・・。
 
さて、わが家の庭でも、もうひとつミステリーなことがある。
地植えのクリスマスローズの花木のそばに、百日草の鉢を持ってくると途端に元気がなくなり、枯れ始めるのだ。これはまずいと思い、他の元気な花の鉢と入れ替えてみると、また同じように枯れ始める。
一方、枯れ始めていた鉢はクリスマスローズから距離を離すと再び元気になり、花を咲かせている。これもリンゴと同じように目に見えないガス?のせいなのか。
 
そんなことで、他も気にすると、もうひとつ思い当たるものがある。家庭菜園でナスとピーマンの苗を3づつ均等横並びに植えたが、これも不思議な現象が起きた。
端と端に植えたナスとピーマンはそれぞれよく実をつけたが、隣同士に植えたナスとピーマンはあきらかに実が少なかった。同じ作植え条件と思っていたが、異なる種類の場合は、一定の距離間が必要だったのかもしれない。来年は注意してみよう。 
 
リンゴから、話がだいぶ飛躍してしまったが、観察するといろいろ面白いことがあるものだ。
話は戻って、仏壇の花の枯れ対策であるが、とりあえず、お供えリンゴは早く食べることにした。ちょうど、食べ頃でいい香りがする。これが魔力・・・?

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円安で、目先の損得勘定ばかりしている時期では無いのでは。 [経済・財政]

円安が止まらない。
今日は1ドル148円、今年の初めは110円-120円で推移していたから、3割近い円安だ。
当然のことながら、輸入に頼っているガソリンや小麦などの食料品や生活必需品は一斉に値上げに踏み切り、庶民の家計を圧迫している。しかしながら、他方、輸出企業などは為替メリットで得しているはずだが、目立った値下げなどの努力は観られない。一方、外国人による爆買いがはじまったようだが・・・。
 
かつては「円安株高」の構図があり、円安は日本経済にとって有利に働くと言われていた。だが、最近では「悪い円安」と呼ばれ、株式市場や景気にも不安が煽られ、嫌な空気が漂っている。
 
はたして、「円安は悪いのか。」
ある経済学者や評論家の話を聞いていると緊迫感はさほど感じられない。米国が利上げをして、日銀が金融緩和をしているのだから、円安なるのは当たり前で、原因が明らかなのだから問題はないという。むしろ、日本政府の外貨準備高が為替差益で約40兆円のプラスになっており、一番得しているのは日本政府だと言っている。だから、このお金を財源にして、円安で不利益を被っている人たちや、今後、日本の活力を創るための投資など行うべきと主張している。そんな話を聴いていると、いまは心配しなくても良いのかと思ってしまう。
 
だが、そんな悠長な話ではない。いまの日本、「豊かさ」は間違いなく低下している。
ひと昔前、1億総中流社会と呼ばれていた時代、中流という言葉にちょっと悲しさを感じたものの、貧乏でないという自負があったものだ。しかし、現在はそれが総崩れで、半数以上の人たちが低流の渦に喘いでいる。おそらく、社会や経済の仕組みが狂い始めているにもかかわらず、政治がそのまま放置したのが原因だ。
 
いまの政治は高度経済成長期から基本的に変わらず、大企業を中心とした資本主義システムの維持にある。大企業が頑張ることで、中小企業に資金が行き、そのお金が個人へ流れることでみんなが潤うという仕組みが信じられていた。けれど、それは工業など第二次産業が中心であった時代のシステムであり、そういう時代は終わった。そもそも円高のときに、大企業は中小企業を見限り、海外への工場移転や安い海外企業へ投資先を変えてしまった。その結果、日本の産業の80%を占めていた中小企業はガタガタになり、倒産も相次いだ。実はそのときに社会構造が大きく変わり、現在もなおその負の遺産を引きずっている。であるから、社会構造の再構築は必須であると考える。
 
ところで、豊かさとは何か。
お金があることが豊かなことか。
いままで、そう信じられて、日本の経済や政治、そして社会は回っていた。
 
身の回りには、必要以上に建物や車があり、まだなお膨大な量を生産している。また、スーパーに行けばありとあらゆる品物に溢れ、食品の多くは消費期限切れとなり処分される。
これがいまの日本の豊かさの実態だ。どこかおかしいけど、みんなそれを当たり前と思い、疑問を感じていない。
 
この豊かさをつくったのは政治である。  
政治が本当に悪いのかと言えば、日本は民主主義の国であり、国民が選んだ政治家がこういった政策を進めてきた。選んだ人たちにとっては、ほどよい社会なのだろう。しかしながら、国会議員選挙の投票率はいつも半数にも達しておらず、ほとんどの人たちが選挙を放棄している。特に若者や本当に困った人たちは政治に関心が薄く、自分たちの味方になってくれる政治家や政党に投票することもない。だから、弱者にやさしい社会にはならず、また社会が変わらない構図はここにあるように思える。
  
でも、いまは資本主義の恩恵を受けている人たちにも、かつてと違う状況が訪れてきているような気がする。だから、政治を本気で考えなければならない。いまは円安で目先の損得の話ばかりしているが、もうそんな時期では無いのではなかろうか。

タグ:円安
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懐かしビートルズの曲がラジオから聴こえてきた。 [趣味・娯楽]

今朝、車を運転していると、ラジオから懐かしいビートルズの曲が流れてきた。
「I Want To Hold Your Hand:抱きしめたい」、ビートルズ全盛期中の大ヒット曲だ。
あの時は激しく感じた曲も、いまはとても心地よい響きに感じる。
 
わたしが中学生の頃(かれこれ50年前)、音楽と言えば洋楽、そしてその最先端にビートルズがいた。
ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、
個性豊かで魅力的な4人組、イギリス・リバプール生まれのロックバンドだ。
活動期間はたぶん10年足らずであったが、その短い期間にどれだけの人たちに影響を与えたか。
もちろん、卓越したサウンド、ミュージックとしての魅力もあるが、その曲が語りかける、魔法のようなエッセンスに当時の多くの若者たちが魅了された。
 
悲しい時は励まし、うれしい時は一緒に喜び、また迷っているときに「くよくよしないで、やってみようぜ!」と背中を押してくれる。英語でもそのニュアンスはすごく伝わってきた。私にとっても、人生のアドバイザーであり、憧れの対象であった。何よりもいつも元気を与えてくれたのがビートルズであった。
 
時は経ち、令和の時代。テクノロジーの進歩で音楽の世界も大きく変わった。いまはほとんどの曲が電子音で作られ、キレの良い音質で聴こえてくる。そのせいか、サウンドだけでなく、歌詞までもデジタル調に聴こえるのは私だけだろうか。よく聞けばいい曲でなのに、感性がアナログ仕込みのため、どうもしっくりこない。
 
でも、いまの若い人たちは、私が若いころビートルズで味わった感触を、このデジタル調の音楽で感じ取り、同じように感動しているのだろう。当たり前のことだが、やはり世代間格差を感じてしまう。
 
しかし、60年前のこの曲がいまの時代の曲の中に入っても、あの時と同じような勢いがあり、決して古びていない。むしろ、新鮮さと斬新ささえ感じる。自分がそう思うだけでなく、もし若者が「これ、すごい曲だ!」と反応してくれると嬉しいものだ。これからの時代を担う若者に、できれば「我々の時代の思い」を受け継いでもらいたい。
 
最近、若い世代の間で昔の曲がリバイバルで蘇っているようだ。よい曲は時代を超えて、また息ぶきを吹き返してほしい。

タグ:ビートルズ
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NHK朝ドラ「舞いあがれ」今回の脚本は期待できそうだ。 [趣味・娯楽]

10月に入り、NHKの朝ドラが新しくなった。
といっても、朝は通勤時間にあたるので、ビデオに撮り、帰宅して夕食が終わった後に観ることにしている。
「ちむどんどん」は脚本があまりにひどすぎて、観るのがつらかったのが、今回は安心して愉しめそうだ。
主人公の舞は、まだ子供時代である。
気が弱く、すぐ熱を出してしまう。しかし、子供ながら責任感が強く、こころ優しい子で、なんとかやってみたいが、失敗したらどうしよう。迷惑かけたらどうしようと、自制する自分に迷い悩んでいる、そんな姿が観ている人を惹きつける。
 
また、高畑淳子演じる、ばあちゃんがいい。
先週の場面で、そんな弱音ばかり吐く彼女に「失敗してもいい。できることからやればいい」と優しく言う。
その時、舞のくすんでいた瞳に、何か新しいものに出会ったかのように光が射し込む。
こころに残る感動的シーンだ。
 
朝ドラのいいところは、人生の教訓がちりばめられているところだ。
「できることからやる」
これはいまの私にも必要なことで、仕事でクヨクヨすることもない。
小さなことでも、ひとつ一つやっていけばいい。
明日への自分に勇気づけられる言葉であった。
  
これから、主人公は自分を変えて羽ばたいていくのだろうが、人生の厳しさや喜び、楽しさなど、いろいろ見せてくれるのだろう。また、今回はちむどんどんの時のような、スタジオのちまちました撮影ばかりでなく、外の景色もたっぷり楽しめていい。
 
まだ、始まったばかりであるが、今回は期待できそうな感じがする。

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混迷深まるロシア、ウクライナ戦争に思う。 [外交・防衛・海外]

ロシア・ウクライナ戦争はロシアの報復攻撃でさらに混迷を極め、悪化の一途を辿っている。
そもそも、この地域の紛争は根が深く、歴史的に観ればどちらにも非があり、正義などどちらも言えない。
ただ、プーチンが仕掛けた戦争であり、今日もロシア軍の攻撃でウクライナの街を破壊している。
やはり、ロシアにこの悲劇の責任は大きい。
 
この戦争、ロシアが引けばそれで終わるのか?
いまウクライナの東南部はロシアのミサイル攻撃、ウクライナの反撃でがれきの山。
多くの人たちが、傷つき、いのちや財産、それから生活の場を失った。
ここに残ったものは何か。
失望、悲しみ、怒りや怨み、そして復讐心など・・・。
戦争が生み出す最悪のシナリオだ。
おそらく、ウクライナの人たちの心にこの怨念は消えることはないだろう。
そして、これは負の火種として燻り続け、今後の世界に大きな不安を残していく。
 
また、さらにもうひとつ懸念されることがある。
それは、西側諸国がウクライナに提供した大量の武器弾薬、そして最新兵器である。
正式な軍隊でない、パルチザン(民間部隊)、実態はゲリラ戦を展開する非正規部隊の手にそれがわたっている。いまのウクライナには武器管理などの国家管理統制が十分に実施されているとは考えにくく、西側諸国は慎重な対応が必要だ。ただ、いまはロシアの攻撃による反撃が精いっぱいで、こうした重要なことが無防備になっているのが実態ではなかろうか。
   
かつて、アメリカが旧ソ連のアフガニスタン侵攻の時、純真な放牧民に武器弾薬を提供し、ゲリラ戦法でソ連と戦わせた構図に似ている。
 
その結果、何が起こったか。
政治不安定が続く中、ゲリラとして戦った一部の人たちが武力集団として力をつけ、やがてアルカイダやイスラム国など世界を震撼させるまでの存在になった。その脅威に晒されているのが現実の世界だ。そうした事実を真摯に受け止め、過ちを繰り返してはならならい。ウクライナで同じようなことが発生するかどうか、いまはわからないが、その懸念は十分あることを受け止めなければならない。
   
混沌とする世界の中で、怒りや怨念は人々を間違った方向に駆り立ててしまう。武力では平和は勝ち得られないものであり、戦争は絶対にやってはならない。いまだプーチンは力で抑えつけようとしているが、やがては、その反作用が同じ大きさと威力でロシアにも痛烈に効いてくるだろう。
 
今後、どうなるのか、まったく観えない。ただ、いまは鎮まる方向に向かうことを願うばかりだ。

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いまやハロウィンは愉しい秋の娯楽イベント [文化・歴史・芸術]

10月に入ると、街の店舗ではオレンジ色の飾り付けがあちこち目に付く。
ハロウィンはひと昔前、日本ではあまりメジャーでなかったと記憶するが、最近は秋定番のイベントになっている。でも、果たしてどれだけの人がハロウィンのことを知っているだろうか。実は私もあまりよく知らない。
なので、こういう時はスマホで検索。すると大体のことがわかり便利だ。
   
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ハロウィンのカボチャお化けのキャラクター商品
 
さて、そのハロウィン、古くは紀元前までさかのぼり、ケルト民族の時代から始まる。この古代ケルトでは11月1日が新年で、前夜の10月31日から秋の収穫を集めた盛大な祭りが開かれたそうで、この日には、死後の世界との扉が開き、先祖の霊が戻ってくると信じられていたという。
 
また、なぜハロウィンの時におどろおどろしい変な仮装をするのかと言えば、この時に先祖の霊だけでなく、悪魔や魔女、さまよえる魂なども死後の世界からやってくるので、人々はそれと同じ格好をして仲間だと思わせ、身をまもっていたそうだ。これが19世紀になると移民とともにアメリカにわたり、次第に宗教的な要素が薄れて、娯楽イベントとして変わっていき、人々を愉しませるものになったようである。
 
ハロウィンのシンボルといえば「かぼちゃのお化け」のランタン。いわゆるカボチャ顔の提灯だ。もともとは大きなカブで作られていたが、アメリカに伝わってからカボチャになったらしい。ガイコツ顔でちょっと怖いのが特徴だ。
 
日本でもこの時期、カボチャのお化けのキャラクターがそこらじゅうにあふれる。本当は怖いお化けのはずだが、どうも怖さを感じものが多い。おそらく、日本の特技「カワイイ」で、お化けもアニメ的で愛らしくなっているような気がする。それが子供たちや若者にウケているのではないか。
 
このハロウィンが終わると、街はすぐにクリスマスモードに移り変わり、それが過ぎれば正月の門松が飾られる。この秋から冬にかけて街は忙しい。
 
また、これらの行事は宗教的要素が強いはずだが、お構いなしだ。
無宗教、多神教ともいわれるいまの日本、いやすべてが商業ベースで動いているのか。何も考えず愉しいことならばなんでも参加するのか、あるいはどんな宗教にも感謝の意を感じながらその行事をいそしむのか、たぶんすべて該当するのがこの国の人たちと考える。
 
節操なく観えるが、良く解釈すれば思考面、精神面で多様化が最も進んでいる民族かもしれない。おそらく、前のブログで書いた折口信夫の研究による「まれびと」に通じる精神、よろずの神を受け入れる準備のようなものが日本人には潜在的に備わっており、キリスト教や仏教、神教、そしてケルトの民族宗教など、あらゆる宗教を抵抗なく受け入れられるのではなかろうか。
 
まあ、ウンチクはさておき、難しいことを考えず、このハロウィンを愉しむのも悪くない。菓子売り場にあった、かわいいカボチャお化けのキャラクター商品(写真)を見つけた。その他にも、いろいろハロウィンにちなんだグッズやアイデア商品が溢れており眺めているだけでも面白い。
 
秋はちょっ寂しげな季節になりがちであるが、ハロウィンを愉しく気軽に味わうのもいい。

タグ:ハロウィン
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小さい秋、艶やかな紫色の実をつけるムラサキシキブ [旅行・散策]

秋空が澄み渡り、さわやかな休日。久々にショッピングモールをぶらぶらしていると、屋外店舗脇にある花壇の片隅で、紫色の小粒の実をたくさんつけた1本の花木が目に入った。そばに寄って観てみると、名札がさしてあり、そのプレートには「ムラサキシキブ」と記されていた。漢字名は「紫式部」。古典文学の世界から飛び出してきたような趣のある名前だ。
 
もう少し、観た目を説明すると、スラッとした低木に紫色の小粒の実が重なり合ってついている。どちらかと言えばその実も小粒過ぎてあまり目立たなく、人目を惹くほどの彩りのインパクトは低い。でも、しなやかに垂れる実とすらっとした葉っぱの絶妙なバランスがとてもエレガンスで愛らしい。
 
どうして、この名がついたか分からないが、この名でこの植物を観るとそれなりの品格を感じてしまうから不思議である。ただ、このムラサキシキブ、最近あちこちでよく観かける。以前はあまり気にしたこともない植物であったが、どうも惹きつけられてしまう。だから、今回も惹きつけられ、しみじみと観察してしまった。でも、名前がわかってよかった。大きな収穫だ。
  
スマホで、ムラサキシキブを調べると、実は日本各地の森林などに自生している落葉低木で、最近では観賞用に栽培されているそうだ。花ことばは、「聡明」「愛され上手」。これは才女として逸話の多い紫式部にちなむと言われ、愛され上手は、美貌と才能に恵まれた源氏物語の光源氏にちなんだものと言われているそうだ。どちらも自分には当てはまらないが、この紫色がラッキーなフィーリングを引き寄せてくれるような気がする。
 
いよいよ秋も深まりをみせてきており、これから秋の花や紅葉を楽しめる季節だ。気持ちだけは日々自然を感じながらゆっくり過ごしていこう。
 
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「まれびと」と共に生きる。100分に名著「折口信夫」 [哲学 思想 名言]

今月から折口信夫「古代研究」を国文学者の上野誠先生の解説で放送(NHK:Eテレ月曜夜10:25)が始まった。
折口信夫は柳田国男と並び、日本の民俗学を築いた研究者であり、また万葉集の口語訳や様々な古典文学の研究など、日本の国文学に大きな功績を残した人物という。私も名前と業績ぐらいは知っているつもりでいたが、「信夫」が「ノブオ」でなく「シノブ」と読むことを知り、初歩的なところで出鼻をくじかれた気分であった。まあ、こんなものだ。
 
さて、内容は、日本独特の美意識や道徳観、いわゆる日本人のこころや精神がいかにして築かれていったか、その神髄について、「まれびと」という意味深なキーワードをもとに解き明かしていこうという展開である。「まれびと」とは「稀に来る人」の意義であるが、ここの捉え方が難しい。古代に遡るとどうやら来る人は人間はではなく神さま、あるいは神につかえる人という意味合いが強いようだ。このまれびとをどう向かい合い、お迎えするのか、今日に至る日本人の生活慣習や精神性はそこに源泉があり、華道、茶道をはじめ、能や歌舞伎の芸能や武士道など、わが国特有の文化もそうしたところから育まれてきたという。日本が世界に誇る「おもてなし」の精神は、まさにその象徴ともいえる。
 
しかしながら、いまの日本。科学の進歩、都市化する社会によって、物事を論理的に考えることが日常になり、古来の人たちのように、神さまのような未知の存在に対して重んじることはない。
 
でも、絶対無縁かといえば、そうでもない。
正月になれば神社に初詣で、端午の節句、ひな祭り、盆踊り、秋祭りなど、普段の生活とは異次元ともいえる非日常的な行いを尊ぶこともある。祭りもパフォーマンスの1つとして捉える人もいるが、大勢の男たちが神輿を担ぎ、「わっしょい、わっしょい(地域によって異なる)」と大きな声を掛け合う。またそれを観ている人たちも一年の無病息災を願いながら、一緒に掛け声をあげて、感謝と祈りをささげる。とにかく、祭りは現実離れした世界であるが、理屈でない「ありがたさ」のような不思議な感覚になる。
 
それはなぜだろう。
 
私の解釈では、日本人の体に刻み込まれたDNAなのか、潜在的に神を迎え、感謝する心が組み込まれているのではないか。自分も無宗教で信仰心といえるものはほとんどない。でも、初詣や祭りは自分にとって大事な行事で、どこか節目、節目に神様に近づきたいという気持ちになる。それが折口が言う「まれびと」と共に生きていくということであろうか。日本人の多くが無信仰といいながらも、礼儀正しく、どこか信仰心が厚く見えるのはおそらくここにあると思える。
 
だから、日本では一般的に葬式は仏教、正月は神社への参拝、暮れはクリスマスを祝い、他国では考えられないくらい節操なく観えるが、精神的にはどこか一本筋が通っている感じは、他ならぬ「まれびと」との関係があるからであろう。つまり、無意識に「まれびと」を迎え入れる心の準備、それが日本人の宗教に対する大らかさにつながっているのかもしれない。
 
これから先も、日本人はまれびとと共に生きていくのだろうか。コロナ禍で、祭りなどの伝統行事が中止になり、かつ若い人の生活スタイルから、かつて大事にされてきた生活慣習などが失われつつあることが気がかりだ。この世界情勢や社会が混沌としている現代こそ、我々の祖先が受け継ぎ、培ってきた精神を次世代にしっかり伝えていかなければいけない。そのためには経済や科学ばかりだけでなく、日本の文化や伝統、生活様式なども重んじられる社会づくりをしていく必要があると言えよう。

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