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「まれびと」と共に生きる。100分に名著「折口信夫」 [哲学 思想 名言]

今月から折口信夫「古代研究」を国文学者の上野誠先生の解説で放送(NHK:Eテレ月曜夜10:25)が始まった。
折口信夫は柳田国男と並び、日本の民俗学を築いた研究者であり、また万葉集の口語訳や様々な古典文学の研究など、日本の国文学に大きな功績を残した人物という。私も名前と業績ぐらいは知っているつもりでいたが、「信夫」が「ノブオ」でなく「シノブ」と読むことを知り、初歩的なところで出鼻をくじかれた気分であった。まあ、こんなものだ。
 
さて、内容は、日本独特の美意識や道徳観、いわゆる日本人のこころや精神がいかにして築かれていったか、その神髄について、「まれびと」という意味深なキーワードをもとに解き明かしていこうという展開である。「まれびと」とは「稀に来る人」の意義であるが、ここの捉え方が難しい。古代に遡るとどうやら来る人は人間はではなく神さま、あるいは神につかえる人という意味合いが強いようだ。このまれびとをどう向かい合い、お迎えするのか、今日に至る日本人の生活慣習や精神性はそこに源泉があり、華道、茶道をはじめ、能や歌舞伎の芸能や武士道など、わが国特有の文化もそうしたところから育まれてきたという。日本が世界に誇る「おもてなし」の精神は、まさにその象徴ともいえる。
 
しかしながら、いまの日本。科学の進歩、都市化する社会によって、物事を論理的に考えることが日常になり、古来の人たちのように、神さまのような未知の存在に対して重んじることはない。
 
でも、絶対無縁かといえば、そうでもない。
正月になれば神社に初詣で、端午の節句、ひな祭り、盆踊り、秋祭りなど、普段の生活とは異次元ともいえる非日常的な行いを尊ぶこともある。祭りもパフォーマンスの1つとして捉える人もいるが、大勢の男たちが神輿を担ぎ、「わっしょい、わっしょい(地域によって異なる)」と大きな声を掛け合う。またそれを観ている人たちも一年の無病息災を願いながら、一緒に掛け声をあげて、感謝と祈りをささげる。とにかく、祭りは現実離れした世界であるが、理屈でない「ありがたさ」のような不思議な感覚になる。
 
それはなぜだろう。
 
私の解釈では、日本人の体に刻み込まれたDNAなのか、潜在的に神を迎え、感謝する心が組み込まれているのではないか。自分も無宗教で信仰心といえるものはほとんどない。でも、初詣や祭りは自分にとって大事な行事で、どこか節目、節目に神様に近づきたいという気持ちになる。それが折口が言う「まれびと」と共に生きていくということであろうか。日本人の多くが無信仰といいながらも、礼儀正しく、どこか信仰心が厚く見えるのはおそらくここにあると思える。
 
だから、日本では一般的に葬式は仏教、正月は神社への参拝、暮れはクリスマスを祝い、他国では考えられないくらい節操なく観えるが、精神的にはどこか一本筋が通っている感じは、他ならぬ「まれびと」との関係があるからであろう。つまり、無意識に「まれびと」を迎え入れる心の準備、それが日本人の宗教に対する大らかさにつながっているのかもしれない。
 
これから先も、日本人はまれびとと共に生きていくのだろうか。コロナ禍で、祭りなどの伝統行事が中止になり、かつ若い人の生活スタイルから、かつて大事にされてきた生活慣習などが失われつつあることが気がかりだ。この世界情勢や社会が混沌としている現代こそ、我々の祖先が受け継ぎ、培ってきた精神を次世代にしっかり伝えていかなければいけない。そのためには経済や科学ばかりだけでなく、日本の文化や伝統、生活様式なども重んじられる社会づくりをしていく必要があると言えよう。

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