SSブログ

いたるところに巨大物流倉庫、建てすぎではないか。 [産業・企業]

最近、思いがけない場所で巨大な物流施設を見かける。
インターチェンジの近くはもちろん、工業団地の中や郊外の広い空き地。
しかも周辺に幾棟も建っているところもある。
さらにその傍で大きなグレーンがまた新しい物流倉庫を建設している。
「なぜ、そんなに建てなきゃいけないのか」
その光景を観て、頭の中で疑問の渦が漂う。
 
いまの日本、どこか狂っている。
いまでも生産過剰で物は溢れ、道路は車だらけ、物流倉庫が増えればさらに物品は増え、トラックや車も増大するだろう。人がどんどん増えるなら話は分かるが、実際は少子高齢化が進み、人口は縮小している。
人と物流の間に大きな社会的矛盾が生じているように思える。
 
しかし、世の中をよく見ると、物流施設が足りなくなる理由もわからないでもない。
我が家の隣の家では、1日に何回も宅配の車が止まる。アマゾンの箱も多いが、よくわからない小箱を手渡している姿をよく観かける。宅配に頼る理由として、特に子育てが大変とか、体に不自由でもなく、年齢も40歳前後で健康そうな家族である。単に便利だから利用しているとしか思えない。そこの家庭が悪いと言っているのではないが、こうした人たちが大勢いる以上、この物流システムはなくてはならない存在だ。
 
昔ならば自分の足で店に買いに行くのが当たり前、いまはなんでも誰かが運んでくれる。
だからと言って、どうでもよいものに貴重なエネルギー資源と人力を使っている現代の社会構造は一体どうなっているか。おそらく、この巨大な物流倉庫の多くは、こうしたつまらない生活習慣を支えるために必要とされ、無用に数多く建設されている気がしてならない。
 
いま物流が経済発展の推進役になっているようだが、こうした流れは決して、より良い社会の構築のためになっていない。とにかく、いまの日本人の生活習慣と政治や経済構造のすべてが、資本主義や大量消費主義にかき回され、かつて美徳とされた堅実で物や人を大切にする心を軽じ、利便性だけを追求する社会につくり上げているからだ。
 
それでいいのか。どこかで、日本も社会・経済の分岐点を探る時が来ているとのではないだろうか。

タグ:物流倉庫
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

道端のつくし、苦労しながら生き生きと。 [旅行・散策]

天気の良い散歩道。道路端の街路樹の植え込みから、つくしの穂が顔を出しているのを見つけた。
こんな場所に、つくしが・・・!
と少々驚きながら眺めると、結構な数が生えている。普通、田畑の畔や川の土手、あるいは広い野原に、いっぱい群生している印象が強いが、それとは対照的に、ここのつくしは、所狭しとほかの雑草を押し退け、ひしめき合うように生えている。
 
しかし、このつくし、よく観るとどこか違う。
かたちの上では、紛れもなく「つくし」だが、一般的に連想する、健やかでスクスク育つ、子供たちの童謡の世界に似合うような伸びやかなイメージではない。どちらかと言うと、ゴツゴツ苦労しながら、まわりの雑草群に負けじと懸命に生きている姿に映る。場所柄、当然土壌は良くないだろうし、車の排気ガスで空気も悪い。そのせいか、てっぺんの穂の顔つきも厳(いか)ついて、春のほのぼのとした表情に観えない。
 
良く言えば「たくましい」が、こうした環境に生きていかなければならない宿命に、妙な親近感と同情心を覚えてしまう。でもつくしは見ていると、どこか楽しい気分になる。
 
さて、話は変わるが、つくしを漢字で「土筆」と書く。
知らない人も多いと思うが、当て字であるから仕方がない。筆をあたまに土に差した姿からそうなったと言うが、当て字なら、もう少し愛嬌のある漢字であってほしかった。
 
また、花言葉は「努力」「向上心」「意外」「驚き」という。思いのほか地味である。でも、このつくし、案外この言葉に当てはまるかもしれない。
つくしは、桜と同様に春の代名詞、寒い冬からあたたかな季節の移り変わりを告げてくれる。
しばらく眺めていると、最初は厳しそうに観えた表情も、あたたかな春の陽気を浴びているせいか軽やかに楽しんでいる様子に観えてきた。うららか日和の春の散歩道、いろいろな発見があるものだ。
  
IMG_0364.jpg
  道端のつくし群。

タグ:つくし
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog