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もはやスマホは脳の補助機能か。 [教育・科学・技術]

先日、出張帰りの特急で異様な光景を目の当たりにした。
いや、これはもはや当たり前なのだろうが、私の目には異様に映った。
それは車両の後部座席側にあるトイレから自分の席に戻るまで観た車内の状況である。
車内は日暮れ過ぎでやや薄暗く、特に話し声も聞こえず、ただ線路を走る音だけが響いていた。
そんな中、座席の間の通路を歩いていると、どの座席からも妙にコントラストが強く、鮮やかに発光するスマホ画面がチラチラ観える。それぞれ何を観ているがわからないが、その小さな画面で赤や黄色、青などの光が忙しく動いていて、とても不思議な感覚になる。
 
見方によれば、ひとりひとりがスマホを手にしている何気ない日常の姿かもしれない。おそらく、みんな普段と変わりないしぐさで、特別なものなどないであろう。しかし、この異様さは、そんな日常に対して疑問を感じさせる光景であり、ややゾッとする感触すらあった。とにかく、みんながスマホに支配されているように観えたからだ。
 
いま、人々の生活がスマホ中心主義ともいえる時代に移行している。そもそも、「人と話す電話」から始まった携帯電話、スマートフォンであるが、コンピュータや通信機能を獲得することで、ビジネスやショッピング、遊びだけでなく、お金の入出金決済や公的な手続きなど、すべての生活インフラの窓口がスマホに置き換えられつつある。それゆえに、計り知れないほどの必需品であることは間違いない。
 
もう何年くらい前になるか、スマホが一般の人たちに普及し始めてから「スマホ中毒」という言葉が世間に登場し、スマホ画面を見続けると目に良くなく、あるいは精神的にストレスにもつながれると危惧され、社会問題としても大きく取り上げられた。現在はそれをはるかに通り越し、もはや脳の補助機能のような必要不可欠な存在といえよう。中毒というよりも、依存しなくては生きていかれないという社会システムが構築されてしまっている。むしろ、そうした社会のしくみや構造そのものが、この問題を大きく変換させ、私たちの生活や生き方を誘導している。
 
もうスマホなしでは生活はままならず、生きていく上でなくてはならないもののようだ。まだ、スマホがない時代を知っている世代は、このスマホ中心主義に違和感を感じるかもしれないが、生まれた時からスマホ漬けになっている世代は、この人口頭脳なしでは生活だけでなく、人生そのものも考えられないのではなかろうか。
 
人間の脳はそもそも不合理的で物事を悩みながら複雑に考え、お互いその複雑さを尊重、協調しながら、人間関係や社会を構築している。この無機質で合理的、効率性を追求している便利なツールであるスマホ(人工頭脳)は、今後の人々の生活や社会にどのような影響を及ぼしていくか。不合理なものや弱いものを排除して、合理的で効率のよい、できる者だけが優遇される社会はご遠慮願いたい。しかし、時代は明らかにそちらの方向を目指しており、それが人々にとって幸せなのだと啓蒙しているようにさえ思える。
 
人間臭さ、泥臭さ、人の情けなど、時には厄介といえるが、それらが排除されない社会、時代が続いてほしい。自然の世界に生きる人間には、これらがやはり大切なもので、決して失ってはならないものである。
スマホはただの便利なツール(道具)か、それとも人間の機能の一部か、あらためてスマホと人間の関係性をもっと真剣に考える時期に来ているのではないだろうか。もう、かつてのSF世界に突入しているように思う。

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