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無縁社会、孤族の国の原因は無関心社会にある。 [社会・生活]

 「人は風景の一部になっている。」 

 今朝、NHK「課外授業」の番組で、反貧困ネットワーク主宰の湯浅誠氏が、人生の取材というテーマで子供たちに教えていた。その時に彼からでてきた言葉である。

 人との絆とは何か。ひとむかし前までは、言うまでもなく当たり前の概念であった。だが現代社会において、あまりにも希薄になり、その言葉に特別な意味や思いが込められるまでなった。冒頭の人間が風景の一部として観られる、そういう人間に対する無関心さが、一般の人々の間でも広がっている危機を、彼は訴えたかったのだろう。

 「無関心社会」では、人の人生や命が観ずに、人をひとつの物や事柄的に扱ってしまう観念が横行する。派遣切りやホームレスの追い払いなど、まさにそれが顕著に表れた事例だ。

 しかし、我々自身も他人ごとではなく、その社会の中で頭が慣らされている。確かに、顔はよく知っているけど、実はその人自身について良く知らない。そういう人は実に多い。湯浅さんは教室にそんな人の3名呼んで、何をしている人か皆に尋ねてみた。給食を調理する人、校庭の芝を整備する人、警備員。でも知っている子供はごくわずか。名前どころか、実際何をしているかさえ、わからない子がほとんどであった。

 湯浅さんに紹介された後、給食の時間に、その人が作った給食について、子供たちに聞いてみると、「普段より美味しく感じる。」「今日は残さないで食べる」といった声が返ってきた。無関心さから関心ができ、まさに絆がつながった瞬間である。

 その後、関心を持つことがいかに大事なことかを、湯浅さんは子供たちに課外授業で体験させた。課題の内容はこうである。街の中で知っている人だけれど、本人の事をよく知らない、その人がどんな人であるか、それを取材すること。子供達はいくつかの班に分かれ、花畑の夫婦、パンク頭の和菓子屋さん、横断歩道の緑のおじさん(おじいさん)のところへ行き、色々な質問をして、その人の人生を探る試みをした。その取材の仕方で面白い点は、「その人が何をやっているかではなく、何を大切にして生きているか」に重点が置かれていることだ。

 横断歩道のおじいさんの事例では、おじいさんが、若いころ戦争に行って、食べることに苦労した話を古びた飯合を見せながら語った。戦争の怖さ、悲惨さなども子供たちに少し伝わったみたいで、戦争がなく平和が続く世界を願う言葉が発表会に出てきた。

 人それぞれ、すごく重みのある人生を背負っている。無関心さは、それを観ずに外観の見かけだけで判断してしまう、そんな怖さや空しさがあること、しかし、関心をもつことで、その人の大切な思いや人生を、ほかの人の心に響かせてくれることも、この番組で知らされた。

 むかしよく居たお節介おばさん、そして主婦たちの井戸端会議は、ある意味で人や社会をつなぐ良い絆づくりの役割を果たしていた。だが、そうした絆を煩わしさとして断ち切った現代社会では、無縁と孤立をもたらした。最近では隣に住む人の顔さえ判らないというぐらい近所のコミュニティーも希薄になり、ひとつ屋根の下の親子ですら、部屋の壁で遮られるほど断絶している。

 これらすべて、突き詰めるならば近所同士の無関心、親が子供に対する無関心、つまり自分主義と無関心主義が結果的に社会や廻りの人々との垣根を一層高くしてしまっているのだ。

 NHKの無縁社会、朝日新聞の「孤族の国」など、社会がこうなったという結果論的な話ばかり溢れているが、どうしてこんな社会になったかを考えるならば、「無関心社会」と表現した方が的確のような気がする。

 湯浅誠さんの課外授業では、そんな無関心社会の警鐘を、未来の子供たちや我々に訴えたかけたものであった。


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