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無縁社会をどう生きるか。 [社会・生活]

 一ヶ月くらい前だろうか、NHKで「無縁社会」をテーマにした番組があった。これがどうも気になって仕方がない。「無縁」という言葉は、とても空しい響きで、孤独を超えた寂しさを感じさせる。最近起こる異常で、悲しい事件の数々が、この無縁社会と密接に関係しているように感じる。

 毎年3万人の自殺者がでる国は他にあるだろうか。世界で最も命が軽く扱われているアフガンの内紛による死者に匹敵するほどの数である。それでも、日本の社会はこの問題に対して冷めている。それ自体が異常なのだ。

 ひと昔前の日本は、一人で生きることができない社会であった。みんなが貧しく、一軒のせまい家で大家族が生活し、隣近所もまるで家族や親戚のような関わりで、義理や人情を大切にしなければ暮らしていけない社会があった。

 こう考えると昔は、人間味があり楽しそうである。どうして今の日本は無機質、無縁な社会になってしまっただろうか。その1つの原因に家のカタチの変化がある。その象徴的なものがマンション、1つの建物に大勢の人が住んでいるが、実際はすぐ隣の家でさえ堅固な防火壁や遮音壁で仕切られ、マンションの中には特定な人しか入れないようにオートロックシステムでセキュリティーが掛けられている。住んでいる人の安全やプライベートを守る半面、実は隔離、孤立したコミュニティー社会をつくられているのだ。

 我々が目指してきた欧米社会は物質的豊かさと個人の自立を志向する傾向が強い。気がつけば日本も経済市場主義の価値社会なっている。NHKの番組の中で、経済評論家の内橋氏が「今の社会で人々は、自立を目指し、結果は孤独になった。」と語っていた。その指摘は実に的を得ていると思う。

 現在、日本経済、企業競争は世界の中で低迷しており、新興国の台頭でさらに厳しい競争状況が待ち構えている。その中で、企業が勝ち抜くためには、更なる効率化と一人一人に重い責任を押付けてくることも予想され、現状よりもっと辛く、苦しい状況になりそうだ。どうしたら、こうした価値社会の殺伐した環境から開放されるのか。また、孤独で無縁な社会を作らないようにするにはできるか。

 幕末時代に訪れた欧米人の日本評に面白い話が書いてあった。日本は貧しく、食べる事に精一杯であるが、皆礼儀正しく、清潔であり、かつ楽しそうに生きている。最初は文化の遅れた野蛮で低俗な民族と考えていた欧米人も自国と比べ、どちらが進んだ社会かわからなくなったという。貧しさゆえに耐える力も大きかったかもしれないが、大らかで精神的にはハイレベルな社会システムが、かつての日本には存在していたようだ。

 このように考えると、物事を損得や優劣ではかる価値社会が、心や精神的な「ゆとり」や「やさしさ」を低い価値にしてしまったのではないか。価値がないものにも、価値を感じれる社会、そうした社会ならば弱者にもやさしくなれるだろう。でも現在の価値社会を否定すれば経済は崩れてくるかもしれない。経済が低迷すれば、人々の心にゆとりを持てるかどうか難しい問題である。

 しかし、現在の日本は経済中心の価値社会の空気が行き過ぎているのは間違いない。「心のゆとり」を考えると思い浮かぶのが、昔から伝わる禅や茶道、華道の世界。無の境地、わび、さびの世界など無価値と思われるものに果てしない価値を追求している。これこそ、価値のないものに価値を与えるすばらしいシステムではないのだろうか。現代で起きているこの「無縁社会」の問題の解決方法は、実は我々の先祖が培ってきた伝統や文化にたくさん詰まっているのかもしれない。
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