今日は5月最終日曜日。この地域では年に1回の小枝切(ドブ浚い)の日になっている。
 
朝7時、家の外はガヤガヤと人の声で騒がしい。回覧では8時開始のはずだが、気の早い人はその前に活動し、それに釣られるように、ほかの人たちも出てきて作業を始める。ここ数年、8時には作業が終了している。
 
外に出ると、若い人たちがすでに道路側溝の蓋を開けて、中にたまったドブ砂を取り出している。わが町内、数年前に若い世代が何件か引っ越してきて、年齢構成もかなり若返った。とにかく、その世代が中心に動いてくれてありがたい。
そのうちに年寄りたちも出てきて、なんでこんな早くからと迷惑そうな顔をしているが、おそらく、今日は天気も良いので、早く済ませて、どこか出かけたいのだろう。それはそれで結構なことだ。
 
普段、近所の人たちとほとんど顔を合わせることはない。でも、この日は近所の人たちと確認し合える、貴重な日である。また、あまり顔見知りでない人たちとも、共通の作業をしていると話やすく、お互いの人間性を確認するには良い機会でもある。こうしたコミュニケーションは大切だ。
 
この小枝切、観ていると実に面白い。年配のおじさんたちは口と道具は貸すがあまり作業をしない。おばさんたちは最初のうちは一生懸命掃除をしているが、途中で井戸端会議。大声でペチャクチャはしゃいでいる。また、小さな子供も親の手伝いをしようと、砂場であそぶバケツとシャベルを持ってきてウロウロしている。
実際、本当に作業をしているのは一部の人たちで、ほとんどの人はその人たちの手伝い、いや参加しているだけかもしれない。それでもワイワイと雰囲気はいい。作業が終わった後は、みんなで「お疲れさま」といって引き揚げていく。とても和やかで気持ちがいい。
こうした光景は、かつての昭和の日常にはあったような気がするが、いまはこうした行事がなければ殺伐としたコミュニティーの中にある。
 
なぜ、普段が殺伐とした社会になってしまうのか。
できれば嘗ての光景をいまの時代に取り戻したい気分である。
あらためて、その原因を考えてみると、
 
車優先の社会が、人を道路から締め出し、地域社会を分断させたのではないだろうか。
小枝切が終わり、日常に戻ると、自宅前の道路はいつものとおり、車の往来で道端で井戸端会議ができるような状況ではなく、もちろん、子供がとても遊べる場所でもない。
 
50年ほど前に遡るが、この道は舗装されてなく、ほとんど車が走るようなことはなかった。だから、道には草が生え、歩きにくかったのを覚えている。また、友達とバトミントンをするために道路にネットを張り、親に叱られたこともあった。道路は遊び場であり、大人たちにとってコミュニケーションの場でもあった。
  
人との絆は、ネットやSNSだけで得られるものではない。やはり人が集える場、空間が必要である。その最も大切な「場」として、「道」があるように思える。
 
現代社会では、道は交通の効率性を高めることを優先しているが、それだけでなく、人とのふれあいや交流あるいは文化の場として位置づけることができれば、より豊かな社会をつくりあげることができるのではないか。
 
そのためには「道」に対する概念、まちづくりの中の道に対する位置づけを、もっと豊かなものにしていかなければならない。まあ、180度、考え方を変える必要があると言えよう。