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ウクライナ問題、人の命を第一に考える。 [外交・防衛・海外]

ウクライナ問題は収束の糸口を見つけられず、戦況は長引く状況が続いている。
そうしている間にも街は破壊され、多くの尊い命が失われている。
何とも言い難い状況だ。
その悲惨な状況を観ていると、お互い主義主張や正当性は空しく、意地の張り合いのようにも観えてくる。むしろ現場で起きている悲惨な実態を直視し、いま何が一番大事かを決断する時期に来ているのではないか。
 
歴史を顧みると、日本でもしばしば同じような場面、状況に遭遇している。
ひとつは幕末の江戸城無血開城。いわゆる幕府の大譲歩。まだこの時期は幕府にも十分戦える戦力はあったが、時の将軍徳川慶喜はあえてその道を選ばなかった。新政府軍との大事な交渉に幕閣の重鎮でなく、今でいう行政役人の課長レベルである勝海舟にすべてを託した。おそらく、慶喜には幕閣では意地の張り合いに終始し、そのために日本人同士が血を流す最悪の事態を回避したいと考えていたのではないか。
 
それから、もう一つが、第二次世界大戦での天皇による玉音放送。いわゆる戦争の終結宣言。軍部の暴走により引き起こした戦争であり、日本の非も大きいが、後半は日本中が火の海になり、戦闘には無関係な女性や子供たちも同様に大きな犠牲を受けていた。当時の軍部は敗北を認めようとせず、たとえ戦禍に飲み込まれようとも最後まで戦う決意でいたようだ。天皇はこの惨烈を極めた戦いを止めるため、また国民の命を守るため、自らを投げ捨て、敗北を宣言することで戦争を終結する道を選んだ。ここでも日本は救われた。
 
当時の日本といまのウクライナ問題を同等に扱うことはできないが、無駄に人の命が失われ、悲惨な戦禍を受ける状況という点では似たところがある。戦争の回避という日本の教訓をウクライナには生かすことはできないものか。
 
日本の2つの戦争終結方法のその後を観てみると意外な結果になっている。。
負けるとすべてが終わると信じて戦い続けていたが、負けてみれば新たな体制が変わり、庶民の生活はまた平和が戻っている。むしろ、以前より良くなったと言っていい。
 
ウクライナは果たしてどうなのか。我々から観ると同じロシア系の顔をしているし、アジア人やアラブ人とは明らかに違う。言葉も文化も共通したところがあるのではないか。おそらく、庶民にとって、ロシアもウクライナも日々の生活をするのに変わらないのでは。たとえ国が変わってもパンの味が変わるわけでもなく、仕事や言葉も変わることはなかろう。はっきり言って、どれだけの人が国家のメンツを持っているか。むしろ、日々の生活が安定していれば、それでほとんどの人たちは満足ではないだろうか。
 
この戦争も一部の国家権力者や国の恩恵を非常に得ている一部の人たちのためのものであって、一般庶民にとってはどうでもいいような気がする。そもそも、そんなものだ。
 
いまの日本人はすっかり洗脳されているが、当時の敵対国アメリカに負けてよかったと思っている人が圧倒的に多いと思う。今日の平和はすっかりアメリカに頼る国になるほど、一般国民には国家感はない。ただ日々の生活が大事なのだ。
 
つまり、一般庶民にとって国家のカタチよりも、日々の食事と住むところ、そして仕事ができ、生活ができればそれ以上望むことはない。それが素朴な平和といえよう。
実は国家よりも目の前の幸せを求めているのが庶民の本当の想いであろう。
そう考えると、ウクライナ問題も見方が変わってくる。もちろん、強国ロシアが撤退することを一番望むところだが・・・。

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