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「法然、親鸞 ゆかりの名宝展」いま仏教思想を見直す時代だ。 [趣味・娯楽]

  浄土宗の祖・法然とその弟子の浄土真宗の祖・親鸞を紹介する特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」が東京国立博物館平成館で開催される。今朝の朝日新聞に哲学者梅原猛さんと作家の五木寛之さんの興味深い話が載っていた。

  法然と親鸞の生きた時代は平安末期から鎌倉時代、地震や干ばつ、洪水、火災など天災や戦乱が続き、人々は飢え、疫病、そして殺し合いなど、地獄のような苦しみや恐怖に怯え、生きることに絶望を感じていた時代であった。この時、法然と親鸞の2人の偉人が現れ、仏教に新たな旋風を起こし、苦しみにあえぐ民衆に希望の光を与えたのだという。

  法然は「南無阿弥陀仏」ととなえれば、誰でも極楽に行けるという平等思想を宗教に持ち込み、その弟子親鸞は法然の思想を一歩進め、死後ではなく生きている人間の魂を救うという画期的な思想を取り込み、従来の仏教思想を大きく変えたという。

  「人間は生きていくためには他の生命を奪い、食べたり、利用したりすることから逃れることは無いのです。動物や魚だけでなく、草にも石ころにも生命があるのです。そう考えると、私たち人間はこの地球上で営々と悪をなし続けてきたのではないかという重い問いを突き付けられています。(中略)、私たちはすべてみな罪人であり、その深い心の闇を照らしてくれる光こそ仏だと親鸞は考えています。」五木さんは話の中でそう語っている。

  今の日本人は、経済大国の豊かさの中で多くの大切なこと忘れ、失った。我々の食生活は世界で最も贅沢とされている。まず、賞味期限があり、それを過ぎれば廃棄、食べ物も味覚に合わなければ残すし、また、食べ過ぎを嫌って残すこともある。捨てたり残すことは金銭的にもったいないというより、その為に犠牲になった生命に対する詫びをしなければいけない。しかし、そんな罪悪感は現代社会から消え去っている。

  何事も、何かの犠牲の上に成り立っている。それを自覚したら、食べ物にしろ、物品にしろ、もっと大切にしなければならない。人の命や、人の心を軽んじる世の中になったが、こうした仏教の精神が、我々の心から薄らいでいるのは確かだ。

  現在の日本では鎌倉時代のような飢えや疫病、戦乱などの苦しみは存在しないが、殺伐とした人間関係、過度なストレスなどやはり人々の悩み、苦しみは続く。また、それ救われず自殺する人の数は毎年3万人を超える。異常な世の中だ。

  何も救われる為に宗教の世界に入ったり、「南無阿弥陀仏」をとなえる必要はない。しかし、法然や親鸞がもたらした仏教思想の中に、現代社会にも通じる救いの智慧が必ずあるはずだ。我々は長い日本の歴史の中で受け継がれ、そして培われてきた宝を粗末にしてはいけない。戦後65年の間に欧米思想で埋め尽くされてしまったが、もう一度、日本古来からの大切な思想を取り戻す時期に来ているのではないだろうか。それも、日本再生の一つになると思う。


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